ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌新連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、小泉今日子さんを取り上げる。
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そんなこんなで、乗りかかった船と言いましょうか。先週の「マツコ・キョンキョン似ている説」に続き、今週はキョンキョンこと小泉今日子さんをほじくってみようと思います。
今も「花の82年組」と語り継がれるぐらい、アイドル歌手の超豊作年(昭和57年)にデビューしたキョンキョン。まさに私世代の幼年期・青年期を彩った国民的アイドルのひとりです。80年代のアイドルを語る時によく使われる「聖子vs.明菜」という紋切り型の決まり文句がありますが、確かにそれは事実ではあったものの、実際に当時の男子たちの性を刺激していたアイドルと言えば、紛れもなくキョンキョンが断トツでした。根っからのオカマだった私には関係ありませんでしたが、無自覚と作為が混在した上に成り立つ小泉今日子の「抜かりない」存在感たるや、子供ながらに逞しく映ったものです。さらに、その確信犯的な奇抜さの奥に潜む「面倒臭さ」。自身の器用さ・賢明さの迷宮に自らハマり、自家中毒を起こしながらも涼しい顔をしてみせる姿は、なんとも男前で、オカマである私が、男としての敗北感を初めて覚えた女性アイドル。それがキョンキョンだったのです。私は長年ファンであると同時に、小泉今日子の「痛々しさ」をどうにか見つけ出してやろうと躍起になっている性質(たち)の悪い輩でもあります。今や「憧れの等身大」という最も揺るぎない境地に辿り着いた感のある彼女。普通ならば安全地帯に身を委ねたオンナ特有のツッコミどころ満載のはずなんですが、不思議なことに現段階で、特筆すべき「痛さ」は確認できません。一方で、キョンキョン的女子道(仕上がり・勝ち上がり方)に影響を受けたと思われる宮沢りえさんや吉田美和さんなどは、ひたすら危なっかしい姿を晒していますし、CHARAやUAといったロハス系シンガーたちの、本末転倒な余裕の無さ加減から見ても、いかに小泉今日子には隙がないかが分かります。自然体なのに隙がない。この矛盾が成立するのは何故か。
※週刊朝日 2016年7月22日号