「年末のドラマ『赤めだか』の放送により、視聴者の多くが志らくを天才だと信じ込んだ。年明けには(中略)ネット検索ワードで志らくが一位になった。そしてひるおびにコメンテーターとして出演したら意外に評判が良く……」
やたらと自慢するのは家元(談志)のお家芸だったけれど、こんなことを本気で考えているんだろうか。正直いってドラマ『赤めだか』はつまらなかった。「ひるおび!」のコメンテーターに志らくが出演したのは見たことがないし、向いているとは思わない。
志らくの前説は毒があって会場をわかせるけれど、そんなことを生放送でやったら大変なことになる。
談志は「なぜ志らくはスターにならないのか」といった。パンフレットにこうある。
「談志は誰より売れている芸人を愛した。勿論志らくは落語の世界では売れた。しかしテレビでは売れ損なった」
それでいいんじゃないの。なぜテレビに出て、スターになりたいのか。
テレビで売れ損なったところが志らくのいい所だ。それにテレビで売れることはそう簡単ではない。志らくは談志のそこのところが継承できなかった。
「談志の最高傑作は志の輔である。志の輔は談志と真逆のことをやって、スターになった。志らくは談志と同じことをやってきたが、落語の後継者にはなったがスターになっていない。この事に関していえば私は親不孝者だ。私に残された時間はあるようでそんなにはない。それで行動をおこすきっかけになればと昨年、ワタナベエンターテインメントに移籍した」
正直な独白だが、どうかね。志らくは落語名人の域に達しているけれども、志の輔のようなスターにはなれません。だって歩んできた道が違うんだもの。
志の輔は、映像や音楽や図表を駆使して、新しい落語ファンを開拓して、パワフルである。テレビ「ためしてガッテン」に出演していることは、落語のコアなファンから見るとむしろ「欠点」である。
テレビはタダ(無料)同然で、客はタダで見られるものに金を払おうとはしない。だから志の輔はテレビ以外の芸を見せなければならず、地理学者伊能忠敬や、歌舞伎役者中村仲蔵や円朝口演の「怪談牡丹灯籠」を、講談調で語る。
志の輔の落語は、鬼気迫る地平をめざして、志らくとは明らかに異質である。ガラガラ声で、円朝全集の図版をスクリーンに映し出し、難しい一覧表まで見せる。そして、どこかで一回だけ「ガッテンいただけましたでしょうか!」と入れる手のこみようだ。
志の輔はテレビ番組で人気者になる工夫をつみ重ねてきた。テレビに学んで、それを落語にとり入れた。
いつだったか、談志・志の輔落語会で、談志が前席を占めていた黒服の観客に怒って退座してしまったとき、にこやかに登場した志の輔が仕切りなおした。しらけきった観客をとりなして、爆笑また爆笑の渦にして、ふたたび談志を高座に呼び戻した力わざ。
志らくは、きっちりと談志の芸風をついで、コアで熱狂的なファンを得ている。いまさら、テレビに出てスターになるなんてことは向いていない。志らくの狂気がさらに渦をまいて、世間を挑発していくか、刮目して待っている。
※週刊朝日 2016年3月18日号