しかし、治兵衛の涙の理由が、小春への未練ではなく、恋敵だった太兵衛という男に小春が身請けされる悔しさからだと知り、おさんは愕然(がくぜん)。今度は常人では考えられない行動に出ます。
小春が治兵衛に愛想を尽かしたのは私が手紙で頼んだからであり、他の男の身請けを望まない小春はきっと自害するに違いない。ここで助けなければ小春への義理が立たず、夫の体面も保てないと、身請けの金を用立てることを決意。自分や子どもの着物を質に入れるために箪笥(たんす)から衣類をかき集めて風呂敷に詰め込むのでした。
そのときのおさんの気持ちは「私や子供は何着いでも男は世間が大事」の言葉の通り。また、治兵衛が小春を身請けすれば、自分は「子供の乳母か、飯炊(ままた)きか、隠居なりともしませう」と言い放ちます。
人形浄瑠璃の世界で、井原西鶴は男性の視点で物語を描いたのに対し、近松門左衛門は女性目線で繊細な心情をすくいあげるのがうまく、近松の心中物によって客層が男性から女性へシフトしたと言われています。不条理な状況に置かれても、絶対に夫の顔を立てる、家を守る。おさんの商家の嫁としての覚悟は、多くの女性の共感を呼んだに違いありません。
アメリカ大統領選の行方も気になりますが、江戸時代のスーパーウーマンの活躍も見逃せませんよ。
豊竹咲甫大夫(とよたけ・さきほだゆう)
1975年、大阪市生まれ。83年、豊竹咲大夫に入門。86年、「傾城阿波の鳴門」で初舞台。「心中天網島」では天満紙屋内の段と、代役で大和屋の段を務める。
「心中天網島」は2月27日~3月21日、地方公演の昼の部で上演。スケジュールの詳細は文楽協会HP(www.bunraku.or.jp)。開演時間や料金は各会場に問い合わせを。
(構成・嶋 浩一郎、福山嵩朗)
※週刊朝日 2016年3月4日号