そこで家康は何をした?(※イメージ)
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 関ヶ原の戦いに勝ち天下を握った徳川家康。戦いの後、家康は武士に孔子の論語を読ませたという。徳川宗家19代目の徳川家広氏が、その理由をこう語る。

*  *  *

 徳川家康にとって、家臣団と大名各家は、あくまでも統治の道具である。

 道具がいくら優れていても、使い方を誤ってしまっては欲しい物は得られない。では家康はいったい、幕藩体制という「道具」を用いて、どのような政策を実施して「偃武(えんぶ)」の理想を実現しようとしたのだろう?

 これを理解するには、関ケ原の戦いが終わった直後の、家康と近臣たち、さらに信頼できる諸大名が何を考えていたかを理解しなくてはならない。

 これは実は容易に想像がつくことだ。

「二度と豊臣秀吉のような人物を登場させない」

 これに尽きるであろう。秀吉のような大天才の梟雄(きょうゆう)が再び暴れ回ることは、どうしても避けなくてはならない。

 これは杞憂ではなかった。社会の底辺から乱世を駆け上って位人臣を極める大出世を遂げ、無数の美妓をはべらせ、空前の贅沢で世間を驚かせ、かつてない大軍で中国に襲いかかった秀吉は、日本男児の夢を生ききったと言っても過言ではない。

 そういうことが可能だとわかった以上、自らを恃(たの)む若者は必ず秀吉の真似をしようとするであろう。それだけでも民衆支配にとっては大打撃なのである。

 では、第二、第三の秀吉が生まれないためには、どうすればよいか?

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