大正13年に泰三が急死してから、34歳のせいは実弟の林正之助を片腕に、さらなる事業の拡大を図ります。嫌々始めた演芸の仕事ですが、商才に秀でていたこともあり、何とか主人の遺志を継がないかんと思い、だんだんのめり込んでいったんでしょう。昭和7年に吉本興業合名会社に改組し、東京支社も設立。大芸能プロダクションの初代社長として、昭和25年に他界するまで、府や国から数々の賞や勲章を受けました。また、政財界にも顔が広く、東郷平八郎さんや小林一三さんとは特に親しくしていました。

 せいは、芸人の心をつかむのも上手でした。正之助が芸人を厳しく叱った後、せいが優しく声をかけ、「これで堪忍しとくなはれ」とお金を握らせる。この「飴と鞭」方式で、芸人たちは吉本から離れられなくなったといいます。正之助は、「あねさんばっかり良い役やってからに……」とぼやいていたそうですが(笑)。

 女傑と言われる吉本せいですが、私にとっては優しいおばあちゃんでした。ときどき祖母の家に行くと、いつもお寿司をとってくれました。あるとき、お寿司を食べた後、「ご馳走様」とすぐ席を立った私に、祖母は「ちゃんと食器を台所に片付けていきなはれ」と言いました。優しいだけでなく、しつけには厳しい人だったんですね。そういう祖母だからこそ、大勢の芸人や従業員がついていったんだろうと思います。

(構成 ライター・伊藤あゆみ)

週刊朝日 2016年2月26日号

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