関ケ原(※イメージ)
関ケ原(※イメージ)
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 戦国時代を制し、江戸時代を築いた徳川家康は大名を厚遇していたという。徳川宗家19代目の徳川家広氏は、その理由をこう説明する。

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 元和偃武(げんなえんぶ)――。徳川の平和の二つ目の柱は、大名たちだった。実は家康は、独裁者というのとはほど遠い存在だった。中国攻略、四国征伐、九州征伐、北条攻めと全国各地を転戦して強敵を次々と打倒した豊臣秀吉こそが、戦国時代を終わらせた覇王であり、じっさい彼はその実績を背景に独裁者、専制君主として振る舞っている。

 実は家康にも、独裁者になりうる瞬間はあった。

 慶長3(1598)年、秀吉死没の直後である。この時、日本、特に西日本は、その6年前に秀吉が始めた「唐入り」つまり中国攻略作戦の失敗によって、疲弊しきっていたのだ。豊臣恩顧の西日本の大名たちは重い財政負担に喘(あえ)ぎ、敗戦によって威信を失していた。秀吉没後、豊臣政権の最高実力者となった家康としては、弱った大名たちを口実を設けて次々と取り潰し、その家臣団と領土領民を吸収していくという道をとることも可能だった。

 だが家康はそうしなかった。その代わりに起こったのが関ケ原の戦いで、そこで自分の側についた西国大名たちに家康は存分に報いている。詳細は別に記すことになるが、「天下分け目の戦い」は朝鮮出兵の後始末だったのだ。仮に西軍が勝利するという事態になっていれば(そうならないための仕掛けは十分に凝らしてあったのだが)、第3次の朝鮮出兵が行われていただろう。

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