戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の末裔で17代当主・長宗我部友親氏は、元親は織田信長や徳川家康とは違い、優しい性格の武将だったとこういう。
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応仁の乱(1467~77年)のころ、土佐には国司格の一條氏を除き、七雄がいた。
長宗我部元親の一代記である立石助兵衛正賀(たていしすけべいまさよし)による『長元記』によると、その七雄の状況は、本山、津野、安芸、吉良がいずれも5千貫で、大平、香宗我部がそれぞれ4千貫である。
そして、長宗我部はもっとも弱小で3千貫であった。1貫はほぼ2石である。
その最下位であった長宗我部が、本山らと争い、次々と土佐で勢力を広げていった。
元親はまずそのなかでも、国境を接していて最強といわれていた本山と本格的な戦を始める。そして、本山に勝利する。また香宗我部には弟の親泰を、津野には自分の三男、親忠をそれぞれ養子に入れるなど、直接の争いは避けつつ、知略で勢力を広げていく。
安芸については、安芸国虎の城を取り囲み、籠城中の城内の井戸に毒を入れたとの噂をまかせて、陥落させた。
四国攻めについては、阿波、伊予、讃岐を結ぶ交通の要衝にあった白地(はくち)城(徳島県三好市池田町)が難関であった。
城主は十河一存(そごうかずまさ)の妹婿、大西覚養だったが、覚養は元親の降伏の勧めに、人質として養子の上野介を差し出してきた。ところが、この覚養が人質を無視して、勝瑞(しょうずい)城の十河存保(まさやす)に応じて寝返ってしまう。