小津の盟友山中貞雄は原節子を「悪く女優ずれしたところが一つもない。清楚で、如何にも純真って感じだ」と褒めていた。戦争から山中は戻って来られなかった。生きて戻れた俺が原を使うのは務めだと、小津は考えたに違いない。
「晩春」(49年)、「麦秋」(51年)、「東京物語」(53年)と続く、高橋治が名づけた「紀子3部作」は、小津と原による頂点である。
父への思いを抑えて嫁ぐ娘、一家崩壊が見えていながら決然と子連れの男との結婚を選ぶ女性、亡き夫の両親に心から尽くす嫁といった役どころを原節子は見事に演じ切ったのだ。
「原さんはいい人だね。こういう人があと四五人いるといいのだがね」と小津は絶賛した。小津が原に固執するのを、けちな松竹が「ギャラが高いから別の女優を」と拒んだと聞いた原は「ギャラは半分でもいい」と出演を強く望んだ。
「私くらい、大根、大根っていわれた女優は映画史上にないでしょう」
と原は言っている。しかし小津に言わせれば、
「猿がドングリを拾うような誰にだって出来る下手糞な演技の真似事をしなかったところに原節子の偉大さがある」
となる。
女優のすごさは、「麦秋」の溌剌とした紀子と成瀬巳喜男の「めし」(51年)の所帯やつれした三千代とを演じ分けているところにある。
2人の結婚が噂になる。しかしこれはなかった。小津にとって原節子はあくまで「女優という素材」であった。原の本心は分からない。ただし、2人はそれぞれ生涯独身を通した。
小津の死の前年、原節子は42歳で引退する。小津の通夜で号泣するのを見られている。5年後、小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、原節子は公の場から姿を消す。
まるで小津に殉じたよう、と沙汰する者があるが、「足の具合が悪くて、正座するのが辛くなってしまって」と言うのを聞いた人がある。
蓼科に小津と野田高梧の記念碑をつくる話が出たとき、いの一番に寄付金を送って来たのは「会田昌江」であった。「原節子」ではなかった。
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何年か前、「原節子が隠れ家レストランに現れた」との噂があった。確かめに行ったら、「ええ、原節子の名で予約がきました」と主人が言う。「会田昌江」だったら信じたが、こいつは与太話だと思った。
※週刊朝日 2015年12月11日号