デビュー間もないころの原さん (c)朝日新聞社
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 朝日新聞の元編集委員、河谷史夫氏が今年9月に亡くなっていた昭和の大女優、原節子さんについて『会田昌江と原節子』と題して、こう綴った。

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往時茫々、新聞の社会部で正月企画を考える際、決まって「原節子インタビュー」という案が出る時代があった。叶わぬまま時は移り、女優はこの秋、命を終えていたとの訃を聞く。

「5センチ眼(がん)」といわれるほど目の大きな少女だった。べっぴん姉妹で有名な横浜の商家の妹は本が好きで、将来は「小学校の先生になりたい」と思っていた。ところが実家が没落する。

「家が貧しかったので女優になった」

 姉の夫の映画監督谷久虎の勧めで、少女は高等女学校を中退、映画界に入る。以後、熊谷の影響は大きい。会田昌江は原節子になった。14歳であった。撮影所でその美貌が話題をさらう。

 山中貞雄監督の「河内山宗俊」で、ばかな弟をかばって苦界に売られる姉を演じた。匂い立つような初々しさは息を呑むほどである。

 その撮影現場に偶然来たのがドイツの映画監督ファンクだった。日独合作映画「新しき土」の主演に抜擢される。作品完成後、「日本の代表的女優」として欧米へ旅行。帰国したとき17歳になっていた。この年、日中戦争が始まった。

 戦時中、原節子は多くの映画に出ている。ことに戦争賛美の義兄熊谷の国策映画にも関わったが、語るべきことは少ない。

 敗戦のとき、原節子は25歳。一家一族の経済を女優の細腕が支えた。

「戦後しばらくは20人近くの面倒を見なくてはならず大変だった」

 戦後という光のなかで原節子が輝く。黒澤明の「わが青春に悔なし」(46年)では世間の迫害と戦う意志の強い女性を演じ、今井正の「青い山脈」(49年)の英語教師は戦後民主主義を体現した。そして決定的だったのが小津安二郎監督との邂逅であった。

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