両陛下が長年の悲願を果たして、パラオ・ペリリュー島へ慰霊の旅に出る。日本軍が玉砕した激戦地では、約1万人の日本兵と約1700人の米兵が命を落とした。戦争の犠牲者に寄り添う、生涯をかけた慰霊の旅。両陛下の「祈り」は、私たちに何を問いかけるのだろうか。
1945年2月、群馬県前橋市にある民家へ、戦地から一枚のはがきが届いた。
<私も馴れぬ熱地天狗様の熱にやられましたが、もう元気一杯です(中略)「決戦」は「今年」しかも今月なり 一家の総力を賭して皇国の御為に邁進。私は最先頭を突進致します>
差出人の塚越澄(きよし)さんは、44年9月27日にパラオ本島から40キロ離れたペリリュー島で戦死した。享年23。
「戦争が終わって実家に戻ると、兄の位牌(いはい)がありました。子ども好きで国民学校の教師になった8歳上の優しい兄です。涙が止まりませんでした」
そう話すのは、弟の茂さん(85)。パラオで戦死した旧日本兵の遺族や生還者でつくる、群馬県パラオ会の会長を長く務めてきた。
戦後70年の節目の、今年4月5日。高崎市にある龍廣寺での慰霊祭を最後に、群馬県パラオ会は解散した。
「苦渋の選択でしたが、2002年に1400人だった会員は270人に激減し、みな75歳以上と高齢です。連絡のつく生還者もすでに数人。慰霊祭や追悼式へ参加できる方は15人程度。組織を維持する体力がありません。それでも来春には元会員が集まり、パラオで慰霊祭を行う予定です」
戦後70年という長きにわたって平和は続いてきたが、戦争を知る世代は年々減っている。両陛下がパラオを訪れるのは、戦争の記憶が失われつつあるタイミングだ。茂さんが続ける。
「パラオは、観光客やダイバーの間では有名になりましたが、彼らに戦争の話をしても反応がない。両陛下の訪問は、私たちの悲願でした。パラオの悲劇を若い世代が学び、平和への道筋となってくれれば」
両陛下にとってパラオ慰霊は長年の課題だった。95年、「戦後50年の慰霊の旅」で長崎、広島、沖縄を訪問。そして大空襲を受けた東京の下町を訪ねた。
しばらくして天皇陛下は、激戦地のマーシャル諸島やミクロネシア連邦、パラオへの訪問を希望している、と当時の渡辺允侍従長へ伝えた。宮内庁はパラオなど3カ国の現地調査をするが、現地には両陛下が移動するための飛行場やふさわしい宿泊施設がない。実現には至らなかった。
それでも陛下の思いは強い。「では、サイパンならばどうか」とねばりを見せて、戦後60年でサイパン訪問、さらに10年を経てパラオ訪問へとつながった。
元皇室医務主管の金沢一郎氏は、かつて本誌にこう語った。
「昭和の惨劇で、命を落とした人びとへの鎮魂は、両陛下にとって生涯を通じた仕事なのでしょう」
※週刊朝日 2015年4月17日号より抜粋