強盗殺人、放火などの罪で死刑判決を受けながらも、48年もの間、無実を訴え、再審を勝ち取った元プロボクサーの袴田巌さん(78)。東京で2カ月の入院後、ずっと支援を続けた姉のひで子さん(81)が住む静岡県浜松市に帰郷した。同居を始めたひで子さんがその胸中と弟との生活を語った――。

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 私と巌は、姉2人と兄2人の6人きょうだい。兄2人は既に亡くなりましたが、富士市(静岡県)にいる姉(88)と浜松市にいる姉(84)は元気です。先日、巌と2番目の姉のところに寄りました。巌が認識できたかわかりませんが、姉は「よかったーよかったー」と手をとって喜んでいました。家庭がなかった私だけが、支援活動の表に立てたんです。犠牲になったなんて思ったことは一度もありません。いつのまにか48年も経っていて、一人でいたからこそ、巌を助けることができたんです。事件直後から10年間は、無実を信じていたのは家族だけで苦しかった……。浜松に住んでいたから直接の誹謗中傷はなかったけど、陰口は耳に入ってきて、世間と距離を置いていました。社宅と会社が同じ建物だったので、廊下を通って出勤。夜中に人目を避けて買い物に行く。最低限しか外出せず、息をひそめて生きていました。夜になると巌の姿が浮かんで、「巌は何をしているんだろう」と気になって眠れなかった……。ウイスキーのお湯割りを1日に2~3回飲んで、アルコール依存症のような状態でしたね。

――静岡で支援者が現れ、日本弁護士連合会や日本プロボクシング協会など、支援の輪が広がった。お酒に頼っていたときでも、支援者が電話で励ましてくれた。

 そのとき、<私がこんな状態ではダメだ。巌を助ける前に私が潰れてしまう>と思ったんです。以来、お酒は一滴も飲んでいません。支援者も支えてくれ、私は何より亡くなった母の遺志もしょっているからね。<負けてたまるか>って思ったの。裁判にというより、世間に負けてたまるかってね。それで、開き直って堂々と生きてきたの。もし、ひどいことを言われたら、「お前、(事件を)見てたのか」って言ってやろうと思ってね。事件直後は、兄2人と3人で面会に行くと、巌が無実を一生懸命訴えるので、私たちが励まされていました。だから決して絶望することはなかったのですが、死刑が確定して死刑囚がいる房に移ったころ、「隣の人が処刑された。皆さんお元気でと言っていなくなった」と怯えたように話してくれました。近い将来、自分にも「お迎え」が来るのではないか。想像を絶する恐ろしい光景が脳裏をよぎったのでしょう。それから奇妙な言動が目立っていったんです。

――大福もちやキラキラ星というチョコレートを差し入れ、月1回の面会は欠かさなかった。だが「姉なんかいない」と拒否されることが増え、ここ3年半は面会することができなかった。巌さんは自分のことを神だと言いだし、自分が神になって死刑をやめさせる妄想にとりつかれていたという。

 私のことも、「機械で印刷したニセ者。メキシコのババアだ」と言うんです。釈放されて入院中も、食事のメニュー表の「袴田巌」という名前の横に「天下の神」と書いていました。自分を守るために、神にならずにはいられなかったのでしょう。今も抜け切れていないですが、少しずつ減ってきているように思います。私はこの48年間、巌を助けるためだけに生きてきました。最低限の生活費だけ使って、あとは巌に差し入れしていて、釈放時に戻ってきたお金が巌の医療費に使われるようになりました。一緒に生活ができることが夢みたい。巌が家に慣れて、社会になじんでいけるようにしたいです。巌に少しでも長生きをさせてあげたいし、私も見守れるように長生きしなくちゃね。

(本誌・牧野めぐみ)

週刊朝日  2014年7月25日号より抜粋