週刊朝日11月29日号に掲載された対談「『だからテレビはダメなんだ』 さだまさし×みのもんた」の完全版を収録しました。

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――今回のテーマは、「ラジオの古き良き時代の話」です。よろしくお願いたします。あとはもう自由にどうぞ。
さだまさし もう、みのさんはラジオ全盛期のスターですからね。
みのもんた 初めてお会いしたのが、あれ、「6スタ」かどっかで収録?
さだ そうです。
みの それを覚えてる。(「グレープ」の)お二人できてね、はあぁ、と。
さだ あれ73年です。
みの うわあ。
さだ 73年、74年にはヒットでましたから。だからヒットする前です。みのさんにお会いしたのは。
みの それから何年もしないでソロを。
さだ 僕は76年からですから。
みの 大ヒットだもんね。
さだ 翌年ですもんね。
みの すごいですね。
さだ そうですね。文化(放送)はほんとかわいがってくれたんで。僕のことを。
みの でもそうでしょ。
さだ はい。
みの 縁ありましたよね、PRとかね。
さだ 今でも。
みの ああそうですか。
さだ あれですよ。
みの 番組?
さだ いやいや、版権がありますから、JCM(文化放送グループの番組制作・音楽著作権管理会社「セントラルミュージック」)に。
みの JCMでね。モギさん。
さだ そうそう。
みの うわ、懐かしい。
さだ 茂木さん、まだ現役ですよ。
みの 現役。
さだ 現役もいいとこです。
みの もう戻って来ちゃったんだもの。
さだ そうそう。
みの すごいタフだよねえ。
さだ それでだって、タマイさんがやってる。タマイさんはご存じでしょ?
みの タマイさん、知ってる知ってる。
さだ タマイさんが言ってたのは、「お前もうそろそろ引け」って。そう言われるから、じゃあ一緒にやめんのかなと思ったら、自分は残ってたという。
みの はっはっはっはっ、そういう人よね。懐かしいなあもう、さっき(さださんが「週刊朝日」で連載する小説「ラストレター」)原稿を見てて、昭和40年代の文化放送がばあーっとでできた。
さだ そうですよね。
みの 楽しかった。
さだ だからあの、昭和40年代の文化放送が現代あるという設定で書いているんですよ。
みの でしょう。
さだ ええ。それでまだ浜松町に、移転する前なんですよ
みの 前だもんね。だから、(対談した部屋にあるドアやマイクを指して)あれは四ツ谷の文化放送を壊すとき、スタジオで使ったドアとかマイクとかを僕がもらったの。
さだ あ、これはやっぱそうですか。
みの そう。あれはベロシティマイクロフォンだもんね。
さだ そう、そう、そう、昔のね。
みの 貴重品だなぁと思って。
さだ これはすごいですよ。
みの スタジオのドアの取っ手もくれたの。
さだ ……えっ?

 

みの いやほんとだって
さだ ドアの取っ手?
みの ほんとだって。これマイクロフォンです。
さだ あっ、ほんとだ!
みの あの当時のスタジオはこういう…。
さだ そうそうそうそう。
みの 懐かしいでしょ。
さだ なつかしい。
みの ね?
さだ そうそう、これこれ。
みの 貴重品よ。
さだ これ貴重品。
みの めちゃ貴重品。
さだ これ素晴らしいですよ、これ。
みの でしょ。もういまこういうのは、作らないとない。
さだ ほんとですね。あのペンダントを出しても値段はつかないので。
みの だから文化放送を辞めるときに、何が記念品って言って、これ。
さだ マイクが。もうほんとに。
みの アサダくん、これでしゃべってたんだよ。
さだ そうですよね、最初の頃使ってた。
みの 使ってたでしょ。懐かしかった。懐かしかった。四谷二丁目の時ですよ
さだ 四谷二丁目の時です。そうです、そうです。あの頃は、だけどみのさん、ラジオからヒット曲が出た時代じゃないですか。
みの でました。
さだ で、みのさんが作ったヒット曲結構あるでしょ。
みの いやあ、あるあるあるある。ヒット曲にしちゃったっていうのがね。
さだ ヒット曲にしちっゃていうの、強引にね。
みの すごかった。
さだ だって東海ラジオのカニエアツコさんが、「精霊流し」売っちゃったんですから、一人で。
みの ああ。
さだ そのぐらい影響力あった。
みの すごかった。
さだ はい。
みの とにかく深夜放送の、というかラジオの電波の持ってる訴求力っていうのは今思うとすごかったね。
さだ 僕、今でも変わんないと思ってるんです。
みの それはあるかもしれませんね。
さだ はい。
みの だから、僕なんかもうテレビに移行してずーっときたけれども、ラジオの持ってる、なんかこう突き刺さるような、すごさっていうのがやっぱり感じますね
さだ なんか、でもね。
みの 「精霊流し」って、あれは大変だったね。だって僕はその大ヒットで、あれ誰だっけな、ヤマダさんだっけかな、「ちょっと行ってみるか、九州、長崎へ」とかね。そのぐらい、すごかったよな。
さだ ちょうどそうです、僕22です、22なった頃。
みの 僕ね、僕あの時の印象、正直な印象で、なんていうか、お寺と坂が…。
 

さだ お寺と坂。
みの 多くなかった?
さだ 長崎はそうですよ。
みの すごくそれがね、印象に残ってる。
さだ ほぼ長崎は坂道ですから。
みの そうだよね。
さだ そうです。ほぼ坂道です。
みの ほぼ、斜面になってる。
さだ あんま急だと、登んの大変だから、石段にするじゃないですか。
みの うんうん。
さだ そういうの坂って言うんですよ。長崎は斜めになっていると頃は石段でも坂ですから。
みの だから、「さだまさしの世界」なんて感じで行ったんだけれども、印象残ってるんだもの。なんかお寺と、坂道がやたら多いなと。名曲だね。
さだ 長崎のあれは、「坂・墓・馬鹿」と言いましてね。
みの なになに?
さだ 坂道とお墓と、馬鹿が多いんですよ。
みの はああ。
さだ なんで馬鹿が多いかって言うと、東京を移した街じゃないですか、長崎って。江戸を移したんですよ。
みの あっ、そうなの?
さだ 移住者が多いんですよ、江戸からの。だから、江戸っ子気質っていうのは、実は長崎っ子気質と底辺で一緒なんですよ。宵越しの銭は持たない、みたいな。
みの あっ、そういうと頃あるの。
さだ そう、それと長崎は、幕府の管轄時代は天領ですから、税金がないんですよ。
みの あっ、天領って税金なかったの。
さだ 税金ない。税金がない上に、長崎奉行が大もうけしているから、各町内に下され金が春と秋にあるんです。
みの お奉行から。
さだ はい。かまど金、かまど銀って言って。
みの へええええ。
さだ その当時は銀本位なんで、銀。だから、長崎の祭りは、「うちはキリシタンじゃありません」っていうんで、その金を、幕府からもらった金を、みんなで生活費にするなんてけっちいことはしちゃいかんと。祭りをやろうっていうことで祭りが多いんですよ。
みの そういうのにお金使っちゃうんだ。
さだ そんときに全部使っちゃって。今でも10月3日になると、「庭見世」っていうのをやるんです。大きな棚の庭の中や土間を、きれいに秋のものとか、それから街を代表する矛を飾って、見せて歩かせるんですよ、みんな、ぞろぞろついて歩くんです。それで庭の中見せて、「うちはキリシタンじゃないですよ」って証明にもなる。
みの なるほどねえ、驚く。「さだまさしの世界」って行ってね、坂とお寺とこういう街でね、っていったら。その次は、なんたっけな、(料亭の)花月かな。
さだ はい、花月。
みの こういうと頃が残ってるんだ。
さだ 残ってありますよ。
みの 感激しちゃった。
さだ いや長崎の検番はあれですからね、新橋より格上ですよ。
みの いや、すごいよね。
さだ すっごい真面目にやってますよ、検番。
みの そんとき僕初めて知ったんですもん、カステラってこれ? 僕の知ってるカステラと違うなあと。
さだ え、ほんとですか。
 

みの だって、文明堂っていうイメージで。東京は。
さだ ああ、その当時はね。まだ福砂屋が有名じゃない頃。
みの そうなの。それで入り口にほら、福砂屋さんっていうのがあって、すごいねえと。
さだ 花月の手前ですもんね。
みの そっ、カステラ売ってる店に入ってったら、なんかさ、大名屋敷みたいな雰囲気でしょ。なんかカステラ買うのが怖いような感じだったのね。
さだ 文明堂って、福砂屋さんの番頭さんが暖簾分けで作った店なんですよね。
みの だって、あの頃なんだっけな、電話が一番?
さだ カステラ一番、電話が二番。
みの 電話が二番か。そういうイメージでいって、カステラこんな店があるんだなあって入って、歴史を感じちっゃたのね。
さだ ああ、そうですか。
みの そしたらみんな、長崎のカステラを買いに来てたよ。
さだ ああ、そうですね。
みの 地元の人?
さだ あれ、自分で食べるんじゃないですよ。
みの えっ?
さだ だいたい人にあげるんです。
みの あげちゃうの?
さだ あのね、自分で買って食べる人ってね、細いのとかは買うんですけど、高いんですよやっぱり。
みの お土産。
さだ お礼とかお詫びとか、おめでとうのお祝いとか、そういう時にカステラを差し上げるんですよ。そうするとそれをいただいて、こうみんな食べるじゃないですか、だから、あんまり自分で買って食べる人はいないです
みの あっ、そうなの。
さだ だから僕の父は、長崎の人間じゃないんで、カステラが好きだったんですよ。
みの あれおいしいもんね。僕らにとっちゃお殿様の食べ物みたいな。
さだ いっつもカステラ下げて歩いてましたから。長崎から東京出てくるときはカステラ。
みの お土産ね。
さだ もう会う人会う人こよなくあげているんですよ
みの うわあ。
さだ 自分が好きだったから。
みの あと、入っている容器でもびっくりしたのを覚えていますよ。
さだ ああ、そうですか。
みの すごい箱だね、あれね。
さだ 桐箱に入ってた。
みの そう。
さだ じゃあいいやつだ。
みの 「すげえなあ、長崎の人たちは」と思ったよ、僕。
さだ いやいやそれは特別ですよ。あんなもん、僕らは耳ですから。
みの 耳おいしいよね。
さだ 耳おいしいです。
みの 「ああ、こういう街から出てきたんだあ」なんて覚えてるなあ。すごく印象に残ってますよ、ほんとに。あの当時のバイオリンですか、あれそのまま残ってるの?
さだ いやもう、今でも弾いてますよ。
みの えっあの時の?
さだ そうですよ、ずーっと弾いてますよ。
みの すごい、すごくあれが新鮮だったの。
さだ 40年です40年。でもバイオリン自体はもう百十何年なんですけど、まだ若いバイオリンなんです。
みの バイオリンとしては若い、100年で。
さだ 若いです、若いですね。一番鳴るのは200年から250年。あと100年ぐらい経ったら鳴りますよ、僕のバイオリン。
みの ああそう。
さだ 僕は弾けないですけど。
 

みの こないだ、あるバイオリニストと話してたら、片時も離さないのよ。
さだ そりゃそうですよ、だって、ストラディ?
みの ストラディなんとかバリウスなんとかですよ。
さだ ストラディバリウス。
みの 離さない。
さだ 離さないっすよ。もうそれは絶対離さない。だって、マンション1軒しょって歩いているのと一緒ですから。
みの いや僕も値段聞いてびっくりしちゃった。たぶんこのぐらいじゃないですかって、「なーに冗談言ってるのかな」って思ったら、それほんとなんだ。
さだ そうでしょ。
みの あれで何百年?
さだ 大体200年から250年ですね。
みの だから僕ね、あなたがバイオリン持ってきてね、ああこの若いお二人が、これから東京でなあ、なんて。それから何カ月もしないでヒットっていうのは怖いよね。
さだ 怖い怖い、ほんと怖いです。
みの どこのラジオ局も、同時にかかることありましたから。
さだ 何しろ一番怖かったのはね、パチンコやっててね、自分の歌聞くっていうのがね。もうね、どうしようかと思いましたよ。もうおれ居場所なくなったと思いましたもん。
みの すごいんだね。だから僕は思うんだけど、あんまり僕は詳しくないけど、今の歌謡界は。
さだ 僕も。
みの あの当時のヒットっていうのは、半端じゃないですよ。
さだ 破壊力があった。
みの すごかったよね。
さだ 売れる枚数じゃなくて。
みの 今の方たちが「ヒットした」って言うけど、もう申し訳ないけど、ええヒット?って言いたくなるような感じ。
さだ なんなんですかね、その差っていうのは。
みの 街歩いているとかかってるんだから。どこに行ってもそのメロディが。
さだ それとね、歌詞覚えやすかったですよね。
みの 言えますね。
さだ 英語混じりじゃなかったから。
みの あっそうねぇ。
さだ だからね、何が言いたいのか、はっきりしてたですよね。
みの それと、あの当時の日本人の心情にあのメロディっていうのがほんと食い込んできましたね。
さだ あの当時のヒット曲ってみんな覚えてますね。どの曲もね。
みの そう、耳に残ってます。
さだ そうでしたねえ。
みの そういう中でね、すごいの。だからさっきも(さださんの連載小説を)読んでてね、あれ早刷りって言うんですか、作品何枚か、何ページかいただいたの。(登場人物で)ああこの人、ああいたな、この人もいたな、この人もこんなこと言ってたな、よく覚えてるなと思ってさ。
さだ オオコシさん、ひどかったですけどね。
みの よく出てくるね。
さだ オオコシさん、今回の話の軸なんですよ。
みの さっき一気に読んじゃったよ、僕。
さだ ははははは。
みの でもこれがラジオの世界だったんだな。
さだ と思います? 僕は文化放送っていうのは、ラジオ局の中でも、ちょっと特殊なラジオ局だったと思います。
みの それはあるかもしれませんね。ニッポン放送のシャープな、なんていうのかな…。
さだ そう、新しくて。
みの 新しくて。
さだ ポップでね。
みの ポップなね。
さだ うん。ところが、文化放送は泥臭くてね。
 

みの どっちかっていうと、ミカン箱の上に乗っかって。
さだ そうそうそう。
みの 高かった。
さだ すごく温度が高かった・
みの 日本の音楽に対して、歌謡曲を中心とした音楽に対して貪欲だったし、よくかけたし、応援もしたし。
さだ みのさんね、文化放送に入社したのって、えっと何歳ですか。
みの 22歳。
さだ 22歳。昭和で言うと?
みの 41年に試験受けて受かって、42年4月から。
さだ ああそうですか。
みの うん。
さだ あの当時の雰囲気ってどうだったんですか、文化放送の。
みの うんあの、今とはもちろん違うけれども、ラジオ局っていうイメージが非常に…。
さだ 41、ちょっと待って下さい、じゃあ(現在の文化放送の社長の)三木さんよりちょっと上ですか?
みの えっと、二つか三つ上じゃないかな。
さだ ですよね、(作家の三島由紀夫が自殺した)三島事件が45年ですよね。
みの そうそう、あいつが、マイクを棒にくっつけて…。
さだ で、本人に聞いたら、なんかこのぐらい短かったそうですよ
みの あっそう? なんか長そうななこと言ってるけどね、本人が。
さだ いやいや、なんかね、ほんとのこと言うと、こんなもんだった。
みの でも、アイデアはあったから全部録っちゃった。三島由紀夫のあの最後の演説もちゃんと入ってるんだから。
さだ 入ってるんですものね。三木さんだけですよ、録ったの。
みの そうそう、他の連中は遠くて届かなかった。
さだ いや、あとね、もう1社来てたんですって。
みの へええ
さだ NHKが。
みの ほうほう。
さだ ところがNHKはヘリで来たから、音が録れない。
みの ははははは、バカだね。
さだ いや、三木さんがそう言ってたんですよ。
みの 三木ちゃん独特のジョークだな。いやでも、あれはすごかった。あの声はすごかった。
さだ やっぱ話題になりました? あの当時。
みの なりました。三島由紀夫っていうのは、こういう人なのかと。
さだ 僕は高校生だった。
みの 例のあの「楯の会」の服装がかっこよくてね、あれはどこで作らせてるんだろうとか、そういうことばっかり言ってたの。今でも覚えてますね、自分のヌード集を。作品に出してね。「いい褌してるねえ」なんて話してたら、まさかああいうこと起こすとはねえ。
さだ そのとき、どこにいたんですか? みのさんは。
みの 僕は報道にいました。
さだ 報道で、報道してた。
みの そうそう。
さだ じゃあニュース読んでたんですか。
みの えーとね、ニュースはね、まだ読まされてないの。
さだ ええっ。
 

みの あのー、あそこ、大手町の産経新聞のラテ部っていうのがあってさ、そこに行かされて毎日毎日。(原稿を)リライト。
さだ あっ、記者で。
みの リライトすると、破かれる。リライトすると、みんなのいる前で、「ほおお、そうかそうかそうか」。あっ、いいのかなと思うと、ビリ。ええっ。毎日それ。もう地獄だったな。
さだ それ今やるとパワハラって言われますね。
みの でも今思えば、ほんとパワハラだよね、確かに。それも何も言わないんだもん。破いて。
さだ でもそれが人を鍛えたんですけどね。
みの それからだもん、僕は辞書なんて持ったことなかったのにもう、いっつも辞書持って歩いて。
さだ ええっ、ほんとですか。
みの 「お前、薔薇って書けねえのか」と。
さだ 薔薇。書けないですよ。
みの 「薔薇ってカタカナで書いちゃいけないんだ」って言われたんだもん。もう今だから言えるもん。はああ、と思った
さだ でもあれですよ、売れてない歌手もやっぱり相当いじめられましたよ。
みの そお? でも最初からあれだから。いじめられた経験ないでしよ。
さだ でもデビューしたのは73年の末なんですけど、10月なんですけど、精霊流しのリリースが翌年の70年の4月ですから、半年間は、もうペーペーで。
みの 何枚ぐらい刷ったの?
さだ 精霊流しですか?
みの だってまだ一人で。
さだ あの当時で80万枚ぐらい出ましたよね。だから、トータルで言うと100万近く出てるんじゃないですかね、その後。
みの しかもあれだからね、テレビなんてまだ創成期だからね。
さだ 全然全然。テレビは。
みの ラジオのあれだけで、80万枚。だからあの今5万枚突破とかさ、10万枚、何言ってんのかなって思っちゃうよね。
さだ そうです。こないだ「天晴」というのが20万弱出たんですよ、違ったっけ? あれ?
みの 20万弱?
さだ 20万弱出たんですよ、「天晴」っていうあのベストアルバムが。最近では見られないぐらいのヒットなんですけど、それでも20万弱すよ。がっかりっすね。売れないし食えなくなりましたよ、みのさん。
みの よくいうよ(笑)。
さだ いやほんと、CDじゃ食えないですよ。音楽界。
みの ああ、今ね。
さだ だってお金かけられないんですもん。
みの ああそうだ。
さだ だって10万が精一杯の人間がいくらかけます?
みの うん。その割にはAKB出たね。
さだ あれはね。
みの 会場に入れないっていうね、CDを持ってこないと。
さだ っていうか、あれは、どうなんですかね。
みの ほんとかな?って言ったら、買わないとは入れない。
さだ あっ、入場券も込みなんだ。
みの 考えたな、秋元(康・総合プロデューサー)君も。
さだ ああそうか、俺もそうすりゃよかったな。入場券込みにしときゃいいんだ。

完全実況 その(2)に続く