11月6日夜、朝日新聞東京本社読者ホールに戦国時代を代表する、徳川、武田、長宗我部(ちょうそがべ)、真田各家の現当主が、集結した。名付けて「戦国ビッグ4座談会」(主催・週刊朝日、分冊百科編集部)。司会は渡辺真理アナウンサー、コーディネーターは小和田哲男・静岡大名誉教授。日本人なら知らない人はいない有名なご先祖様たちや家の歴史をどのように見ているのだろうか。
徳川恒孝氏(同徳川):会津松平家には保科正之公が書かれた「会津藩かくあるべし」という家訓がありまして、呪縛にかかり戦争に突っ込んでいったんです。徳川家には特にそういうものはありません。「人の一生は~」というのがありますが、家康公ご当人の作ではありません。宗家を継いだ苦労は、やっぱり悪いことができないことですね。カンニングもできなかった(会場笑)。
渡辺:家康公はどんなイメージですが。
徳川:狸親父(たぬきおやじ)と言われてますが、それほど狸だったとは思いません。関ケ原が終わった2年目に、正倉院御物を守るため、巨大で頑丈な宝物を入れる櫃(ひつ)をたくさん納めました。それで正倉院からどんどん物がなくなることが止まった。京都の御所を造り直し、寺院の修復にも莫大な支援をしています。古き良き日本を守り通そうとの思いがとても強かったと思います。
渡辺:武田さんは信玄公に対して、どう思ってらっしゃいますか。
武田邦信氏(同武田):「五分の勝ちをもって上となし、七分の勝ちをもって中となし、十分の勝ちをもって下となす」という言葉があります。戦は引き分けか、少々勝てばいい。100%の勝ちは味方の損害が出る。これが信玄公の根本的な戦です。それから信玄堤や金山等々、人をピックアップして適材適所でやらせました。そこが素晴らしかったと思っております。
会津松平家について、初代の正之公を成人までお育てしたのは、武田の見性院(けんしょういん)様なんです(会津の松平容保=かたもり=公のひ孫でもある徳川氏、頭を下げる)。いやいや、とんでもない。家康公も信玄公も、こういうところでお話しできるなんて、本当に喜ばれているでしょう(笑)。
渡辺:長宗我部さん、どうでしょう。
長宗我部友親(ともちか)氏(同長宗我部):大学紛争のとき学生でした。「自由舞台」というところで芝居をやっていて、先輩に加藤剛や劇作家の別役実がいました。別役さんは「べっちゃく」と土佐では呼ばれていて、昔うちの家臣でした(笑)。そのころ教授に「長宗我部であるなら系図を見せてくれ」と言われ、その際に劇団の友達にも見せたら「お前はこんな衣を着て、いまだに生きているのか」と。大学紛争は伝統を破壊して新しいものを生み出そうとするのがもともとなんですね。それで総括にあいまして、以来、私は長宗我部家の出ということを封印いたしました。
で、新聞記者を40年くらい続けたんですけども、「お前の役目は、長宗我部家の歴史をちゃんと残すことじゃないか」と先祖が言ってるのではないか、そんな声が聞こえて『長宗我部』という本を書きました。当主たちがその時代時代に何を思って生き、どういう判断をしてきたかをずっと考えました。人が生まれるということは、すべて続きである。そうした人間の繋(つな)ぐ思いを背負って人は生まれてきている。だからかかわりのある人々を大切にしなきゃいけないと感じました。
渡辺:真田さんはいかがでしょうか。
真田徹氏(同真田):自分の先祖に対して感想はないんですよ。あまりにも小説などで大きく伝えられすぎてましてね。たかだか信州で3万8千石ですよ。沼田をあわせても5、6万石。徳川さんも上杉さんも北条さんもみんな大国です。まあ真田なんて、ちょっとうるさいのがいるなという感じですかね。
徳川:一言申しますと、僕にとって子供のころ、真田家というのは輝ける星でございまして(会場笑)。猿飛佐助、三好清海入道、三好伊三入道、あとの真田十勇士、なんとも素晴らしい方たちで、猿飛と霧隠才蔵が何回狸親父を襲おうと思ってもね(会場笑)、天海という悪僧がお経を読んで入れないんですね。僕が子供のころは、なんて天海って悪い奴と思いましてね(会場笑)。真田は僕の子供のときからのあこがれのお家でらっしゃいますから。
※週刊朝日 2013年11月22日号