■桜と戦争

 ではなぜ、さくら色の卒業ソングが森山以前には少なかったのか。その背景には「戦争」がある。最も有名な軍歌というべき「同期の桜」が象徴するような軍国主義的なイメージを、桜に感じる人もいたのだ。たとえば、阿久悠は愛国的な詞を書くことについてこんなためらいを口にした。

「国旗出すのにすごい抵抗があるっていうか……桜の花ですら耐えられない」

 彼は昭和12年の生まれで、終戦を8歳で迎えた。ごく多感な時期に価値観の大転換を経験したため、屈折した国家観を抱かざるをえなくなり、それが桜のイメージにも影響していたわけだ。フィンガー5や森昌子などで卒業という題材自体は好んだが、桜を絡めることはしなかった。

 彼のような人がこの時代には多かったのか、阿久作品に限らず、昭和歌謡には桜ソングも稀だったりする。そのかわり、リンゴやらくちなしやらひまわりやら芥子やらのさまざまな花が歌われていた。花といえば桜、というのはむしろ、Jポップの特徴なのだ。また、70年代以前は卒業がテーマになることも珍しかったから「さくら色の卒業ソング」はなかなか生まれなかったのである。

 しかし、戦前も戦後も花見は盛んに行なわれていたわけで、日本人はとにかく桜が好きだ。その思いがJポップになって爆発したのだろう。2000年には「桜坂」(福山雅治)がダブルミリオンを達成、02年には「SAKURAドロップス」(宇多田ヒカル)も大ヒットする。この年には「さくら」という朝ドラも放送された。

 その翌年、森山のさくら革命が起きるわけだ。

■「さくら(独唱)」誕生秘話

 そんな革命の担い手として、彼ほどふさわしい者はいなかった。この人のなかには、青春歌謡の遺伝子が受け継がれているからだ。母はフォークの歌姫・森山良子で、親戚には「我が良き友よ」のかまやつひろしもいる。家で何か口ずさみ始めると、誰かにサビを奪われるという「鼻歌どろぼう」が日常茶飯事だという音楽一家で育ち、歌手としての天性も作詞作曲者としての素養も抜群だった。

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