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いくつか重なった偶然により、人生が大きく左右されることがある。明治の初めに来日し、10年ほどの間に東大教授として地質学を教えたエドムント・ナウマンもそうだったのかもしれない。日本でも故国ドイツでも、今はあまり名を聞かないが、じつは現代に通じる地質学上の大きな功績を残していた。
科学史家の矢島道子氏はこのたび日本全土に残るナウマンの足跡を追い、図書館に眠る資料を掘り起こしてその功績を日独で初めて明らかにし、『地質学者ナウマン伝』(朝日新聞出版)として上梓した。数奇な運命に翻弄されながら、日本の地質学向上に力を尽くしたその生涯を、見て「しまった」、惚れられて「しまった」側面から紹介する。
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■若くして東大教授に
ナウマンと聞いて、何を連想されるだろうか。恐竜の好きな方は、博物館のナウマンゾウの骨格標本を思い出されるだろうか。日本でも故国ドイツでもあまり知られていないし、伝記も出ていない。
エドムント・ナウマンは1875(明治8)年、20歳で来日し、東京大学理学部地質学初代教授となり、地質調査所を創設し、1885年に帰独した。いわゆるお雇い外国人であり、日本の地質学の父であるが、どうもよい評判を聞かない。だいたい、肖像画も彫像もない。これはどうしたことか。
ずいぶん若く日本に来たのには背景があった。来日前年の1874年、ウィーンで万国博覧会があり、日本ははじめて出品、日本庭園も披露した。ヨーロッパで地質学が盛んになりはじめたこのころ、この日本庭園の石を削って調べ、日本の地質を見立てて論文にしたドイツ人がいた。ミュンヘン大学教授だった地質学者ギュンベルだ。ギュンベルの論文を読んだ青木周蔵駐独公使が、ギュンベルに若い地質学者を日本に派遣してくれないかと要請した。ギュンベルのところにいた若きナウマンに白羽の矢が立てられたというわけだ。
■フォッサマグナを見てしまった
来日してすぐ、浅間山が噴いた。ドイツには活火山はない。多くの外国人が浅間を見に行き、ナウマンも出かけた。ただ、ナウマンはなぜか、同じ道を帰ってこなかった。ちょっと西の平沢村に寄り、遠く南の雲海に富士山がぽっかりと浮かび、西側の切り立った山々の麓は平坦な平野となっているという非常に奇妙な地形を見てしまった。ナウマンはこれをフォッサマグナ(ラテン語でフォッサは溝、マグナは大きいという意味)と名付けた。日本独自の地形で、本州を南北に切り裂くように走る。その成因はいまも謎で論争が続く。ナウマンは地上でそれを見出してしまった。生涯、その成因を追究することになる。