「当時は1香港ドル(日本円で約15円)の資本金で、誰でも会社が設立できたんですよ。ただし最初は完全なペーパーカンパニー。生活するために、すぐにギフト商品を取り扱う小さな商社に就職しました」
そこから山本さんの“二足わらじ”の生活がスタートする。
ギフト会社では中国やベトナム、インドから商品を仕入れ、量販店などに卸す仕事をしていたという。一時期はやった中国製の折り畳み自転車やベトナム、インドの雑貨は、みな山本さんが仕入れて日本ではやらせたものだ。
「ときには香港にある自分の会社を経由させることもありました。朝、ソウルで打合せをして、昼に香港に飛び、夕方、香港で打合せ、その日のうちに日本にとんぼ返りするというハードスケジュール。朝飛んだのと同じ飛行機に搭乗して、CA(キャビン・アテンダント)から驚かれたこともありましたね」
●マカオのパティシェと仲良くなり、エッグタルトの独占契約に成功
だが、5年勤めたこの会社もいづらくなってやめてしまう。企業グループ間での派閥争いに巻き込まれたからだ。
30歳になった山本さんは、香港につくった会社で本格的に貿易の仕事をスタートする。
ちょうどそのころ、運命的な出会いがあった。
「吉本時代に交流があった先輩芸人が、飲食店の経営者に転身して、大成功してたんです。彼と偶然再会したとき、マカオではやっていたスイーツの導入を相談されました」
すぐに経営者とマカオに飛び、人気のスイーツ、エッグタルトを開発したパティシエと面会する。彼の元には日本からそうそうたる企業から独占販売のオファーが相次いでいた。だが、山本さんは、なみいる大企業をさしおいて、独占販売契約を結ぶことに成功する。その秘訣はズバリ、友だちになることだった。
「相手の厨房に入って、一緒にビール飲みながら、『日本に来えへん』と誘ったんです。海外の人はみんな日本に来たがってますからね。それで日本にウィークリーマンションを取って、ふつうの生活を見せてあげました。パティシエはガード下のおでんとホット酒をことのほかお気に入り。いっぺんで“日本ラブ”になって、『オー、ジャパン、ワンダフル! ユーと一緒に仕事したい』(笑)。僕らとだけ、独占契約を結んでくれたんです」
相手の懐に飛び込んで、日本に連れてきて、仲良くなる。実はこの方法は、現在、山本さんがたずさわるニュージーランドとの取引きでも発揮されている。
とにかく、こうして山本さんは、元芸人だった飲食店経営者の下で、エッグタルトの販売を開始し、とんでもない大ブームを巻き起こしたのだった。