ただ最近、こんなことがありまして。ガソリンスタンドで洗車をしてる間に、どう時間を潰そうかと辺りを見回すと、向かいにペットショップが。で、息子と2人で入ってみました。7歳になったばかりの息子がオドオドしながら子犬を抱いてる姿を見て、「息子の情操教育のために飼ってみるのもいいかも」と思ってしまい、帰宅後、妻に相談すると、「なんにも分かってないな、君は」という感じで説教をされました。
「生き物を飼うということがどういうことか分かってるの?」。ノッケから叱られモードです。「雨の日も風の日も雪の日も、散歩に連れていけるの? 君は」。うーむ、いきなり自信がありません。「色々、自分の生活が制限されることもあるかもよ。その覚悟はあるの?」。
考えれば当然のことです。その命と共に生きるということは、やらなければいけないことができ、時にはもしかしたら自分を制限したり、犠牲にしたりすることがあるかもしれない。ホント、当たり前のことだと思います。浅はかな自分を反省しました。
ただ、こんな気持ちにも実はなっています。僕は正直に告白しますと、今まで恥ずかしくなるくらい、自分本位で生きてきました。もちろん、自分以外にはなかなか自分本位にはなりませんし、自分本位はある程度は必要なことだと思います。しかし、自分を制限し、犠牲にすることがあっても、それでも自分以外の命と共に生きることで、生活に色彩が増し、人生が豊かになると感じられる人が、生き物を「飼う」資格があるのだとしたら、僕もその資格を取得してみたい。自分本位を少し退け、他の命と苦楽を共にし、人生を豊かにする、その可能性みたいなものに、興味が出てきたのです。
こんな気持ちに初めてなったのは、子どもができたからか、50歳になるからか、自分本位に嫌気がさしたからか、分かりません。ただ、真剣に生き物と共に生きることで、もう少しマシな人間になれるかもしれない、そんな気持ちに最近なっています。まだ現状、犬を飼う資格も覚悟もない僕は、もうしばらく、自分本位を出し入れしながら、犬という命と共に生きる時期を模索していきたいと思っています。だからアレだね。次、取材で犬のことを聞かれたら、こう答えよう。「相棒になってくれるかもしれない存在」と。(文/佐藤二朗)
※2月は休載予定です