シリーズ中、王は昼過ぎになると宿舎ホテルのロビーに姿を見せ、番記者たちとコーヒーを飲みながらの懇談会を連日、開催してくれた。そこで1時間ほど、試合のことや日本リーズへの思いを話してくれた。この時の話の内容が試合後の原稿に生きてくる。喧噪の中でも、常に周囲に目を配り、冷静に対応してくれる。これが王の懐の大きさであり、誰もが王に惹かれる理由でもある。
その年、長嶋は背番号を「33」から、現役時代の永久欠番でもある「3」に戻していた。しかし、2月の宮崎キャンプが始まってからも、長嶋はグラウンドコートをなかなか脱がなかった。いつ「3」がお披露目されるのか。キャンプ序盤は“ミスターの背番号”の話題がやたらとクローズアップされていた。そして、ミスターがとうとうジャンパーを脱いで「3」を公開した、その翌朝のことだった。
高知キャンプでのダイエーは毎朝、宿舎ホテルから5分ほど歩いたところにある鏡川の土手で朝の体操を行う。王が歩く間、ぶらさがって会話を交わすのが番記者にとっては一日の仕事のスタートだ。
「ミスターがジャンパーを脱ぎました」
「もう、君たちね、キャンプも始まってしばらく経つんだから、そろそろ松井が打ったとか、誰かが投げたとか、野球の話があるんじゃないの? ミスターがジャンパーを脱いだって、それが話題になるなんて、一体、どうなっているんだよ?」
笑いながら、その“喧噪ぶり”を戒められた。ただ、この年は「ON決戦」への期待が高まっていた。前年の1999年、博多へやって来て5年目の王がダイエーを初の日本一に導いていた。その王を博多へ引っ張ってきた仕掛け人が「球界の寝業師」と呼ばれた根本陸夫だった。
フロントマンとして、西武ではその人脈と交渉力で逸材をアマ球界から引っ張り、大型トレードを仕掛けて黄金期を築き上げた。ダイエーでも、王を監督に迎えたのに始まり、小久保裕紀、井口資仁、城島健司といった当時のアマ球界でトップクラスの人材をドラフトで獲得し、1999年、2000年のリーグ連覇にも貢献。後にホークスの監督にも就任する秋山幸二、工藤公康といった一線級のプレーヤーもトレードやFAで獲得していた。