時折、涙で声をつまらせながら「人生の旅」を振り返った平成最後の天皇陛下85歳の誕生日の記者会見は、一つの時代の重みと移り変わりを感じさせるものだった。
昭和天皇の崩御から始まった平成の30年。どんな船出だったのだろうか。
日本テレビのチーフプロデューサーとして、「Xデー」を仕切った皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。
「1988年9月19日に陛下の吐血が報じられて以降、毎日のように脈拍や病状が新聞の1面やテレビのニュース、テロップでも伝えられ、国民は一喜一憂していました。私たちも天皇がお休みになっているという部屋の窓を、野球中継で使う望遠のカメラで捉えていました。とにかく誰も経験したことがないことだったので、すべてが手探りでした」
世の中は自粛モードに突入。当時のAERAはこう報じている。
<東京駅恒例の駅コンサート、いわき市の美空ひばり歌碑除幕式、山梨県のワインまつり、日光東照宮秋季例大祭の千人武者行列、2億円かけて準備した大阪市の御堂筋パレード、伝統の長崎くんち。どれも中止された。「祭り」の名が「大会」と変わり、運動会からは花火と万国旗が消えた>(「AERA」1988年10月11日号から)
<テレビからは「笑い」が消えた。陛下の容体悪化が伝えられて一夜明けた20日。フジテレビのお昼の人気番組「笑っていいとも!」を見たファンは「あれっ」と思った。軽快なテーマソングを女の子3人の「チャイルズ」が踊りながら歌い、タモリが加わって拍手を浴びる、冒頭のパターンがなくなったのだ>(同)
年が明けて1月7日、午前5時前から宮内庁関係者や皇族らが皇居へ集まり始め、7時55分には宮内庁の藤森昭一長官が「崩御あらせられました」と発表。テレビ各局は東京・銀座や皇居前の様子などを中継で報じ、街では号外が配られた。JR東京駅構内や東京ディズニーランドでも放送で崩御を伝えたことが当時の新聞にも記されている。デパートには半旗や弔旗が掲げられ、店内のBGMを取りやめ、正月飾りや横断幕などを撤去。夜には屋外のライトアップが消され、早めに店じまいする飲食店も多かったようだ。
一般には携帯電話どころか電子メールも普及していない時代。どうやって“その時”の情報を得ていたのか。