書類発行の手続きは済んだものの、これで一安心とはいかない。もう米国を離れるからと米ドルをほぼ使い切っていたのだ。帰りのタクシー代を支払うときに「クレジットカードを使える」「使えない」でもめてもやはり一巻の終わりだ。領事館の外に出て「exchange」の看板、つまり両替できる場所を見つけ出し、ようやく、なんとか、それでも予定通りの成田便のシートに収まった。
帰国後、自民党派閥の会合を取材した。私が書いた記事は政治面3段(633字)。「帰国できません」と同僚に急きょカバーをお願いするのは気が引けるボリュームだった。
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人は、病気その他のピンチが目の前に立ちはだかった時、これまで体験したことがあるやり方でしか立ち向かえない、と書いたことがある。逆に言うと、相手によってやり方を変えようとしてもまずできないのだ、と。
パスポート紛失では、けっきょくはシアトルに移って書類を発行する必要があると踏み、小さな飛行機に乗ることを決めた。いっぽう、がんでは、精密検査中から「自分は膵臓(すいぞう)がんだろう」という最悪の展開を頭から追い出さず、むしろ織り込むようにした。のちのち、ショックを受けずに治療を始められるようにするためだ。
そう考えると、これまで生きてきた私が大切な場面ではいつも目の前から先のことに目を向け、「飛ぶ」を選んできたことがはっきりする。
入院は今回で13回目となる。これまではたいてい、許可が下りたら「できるだけ歩いて」と言われたものだが、今回はちょっと様子が違う。歩くと足に血が集まり、内蔵のほうにいく血が少なくなるから、歩くのもちょっと考えながら……とのことだ。
といって始終、ベッドに横になっていれば、すでに食事の全面禁止も重なってやせ衰えた太ももから全身へと衰えは広がっていく。目線を全身に向ければ、遠からず寝たきりになることへの心配も持ち上がる。「もっと歩いておけばよかったのに」と悔やんでも遅い。
だから私は、配偶者に付き添われ、サンダルを突っかけた足の裏を床につける。病室を出て廊下へとつま先から踏み出す。よちよちとした足取りと、確固たる決意で、私は今日もまた「飛ぶ」のだ。