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 歌手生活36周年、今も輝きを放ち続けている“アイドルの中のアイドル”松田聖子──。

 1979年にサンミュージックに所属して89年に独立するまでの間に24曲連続オリコンシングルチャート1位など数々の金字塔を打ち立てた。希代のスターはどうやって運命の扉を開けたのか。デビュー前、九州の実家まで直々に親を説得に行ったという“立役者”の一人で元専務の福田時雄名誉顧問(86)が振り返る。

「聖子と初めて会ったのは79年の5月。四谷4丁目の事務所の一室です。九州の私立高校の3年生で、制服を着てひとりでやってきました。見た目の第一印象は、清楚なお嬢さんといった感じで、ここまでビッグスターになるとは正直、思いもしなかったんです」

 聖子は前年78年4月、ミス・セブンティーンコンテスト(集英社・CBSソニー共催)の九州地区大会で桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌い優勝したが、両親が反対して全国大会を辞退していた。

 だが当時のCBSソニー制作部の若松宗雄プロデューサーがその歌を聴いて「売れる声だ」と確信しスカウト。聖子と連絡を取り続け、東京でプロモーションを始めていた。サンミュージックは数社目に訪れた事務所だった。

「うちでは翌年2月に別の女性歌手(中山圭子)を同じCBSソニーからCMとタイアップして売り出す予定があり、断るつもりでした。でも持参した山口百恵や岩崎宏美のカラオケテープに合わせて歌ったとたん、(創業者の故・)相澤(秀禎)も私も釘付け。伸びやかないい声で。それで、うちで預かりましょうということになったのですが、高校を卒業してから上京しなさいと話したんです。そして、すぐにCBSソニーの人と久留米の家へ説得に行きました」

 応接間に通された福田氏は、そのときの“家庭の様子”が忘れられないという。

「応接間のソファに私とお父さんが向き合って座り、音楽の才能のこと、相澤の家に下宿させて見守るということを話したのですが、そのときに聖子が紅茶をトレーに載せて持ってきてくれました。高校生ながらお茶を出す姿が板について、すごくよかったんです(笑)。きちんとしつけられた娘さんだなと」

 聖子は紅茶を配り終えると、応接間に続く縁側(板の間)に、トレーを持ったままピシッと背筋を伸ばして正座して、そのまま微動だにしなかったという。

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