500人を率いる “すご腕”女性実験物理学者52歳の素顔 家では「ダメキャラ」、いつもウジウジ悩んでる

第5回 実験物理学者 市川温子さん(52)

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ニュートリノ
ニュートリノビームを作る装置を設置するとき、T2Kチームのメンバーと一緒に装置の前で撮った記念写真=2009年1月、市川温子さん提供

  ニュートリノという素粒子の実験では、日本はこの35年間ずっと世界をリードしている。岐阜県飛騨市神岡町に大型装置カミオカンデを造った小柴昌俊さん、それより一まわり大きいスーパーカミオカンデで実験した梶田隆章さんが、どちらもノーベル賞に輝いた。現在、人工的につくったニュートリノビームを茨城県東海村から神岡町に向けて飛ばす「T2K実験」(Tは東海村、2は英語のto、Kは神岡を表す)が進行中である。実験チームには現在、14カ国から500人を超す研究者が集まる。

【写真】似ている?似ていない?仲良し母娘のツーショット

 この大所帯の代表を務めるのが、実験物理学者の市川温子さんだ。京都大学准教授を経て2020年から東北大学教授。夫は東海村にある大強度陽子加速器施設J-PARCで働く加速器の研究者、一人娘は高校3年生だ。子育ては「旦那さんががんばった」、家では「いろんなことができないダメキャラ(ダメなキャラクター)」だそうだが、仕事では新しいニュートリノ実験プロジェクトを自ら中心になって立ち上げようと奮闘中である。目指すは物理学の根本に横たわる難問の解決だ。
(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)

*  * *
――500人といえば、1学年2クラスの小学校の全校生徒数より多い。社員が500人いれば、立派な大企業です。それだけの人数を束ねていらっしゃるんですね。

 代表に選ばれたのは4年前です。メンバーのうち日本人は100人ぐらいですが、装置が日本にあるので、実験代表は日本人と日本人以外が共同で務めるルールになっています。選定委員会が候補者を決めて、可否投票をメンバー全員でします。

 物理学の世界ではいろいろな実験プロジェクトがあって、どれにどのくらい時間を割くかは人それぞれなんですけど、私は博士号をとって以降ずっとT2K実験に集中してきました。だから、そろそろ代表かなとは思っていました。私と一緒に共同代表を務めているのはスイスにいるスペイン人物理学者です。

――代表の任務って、どういうものなんですか?

 いっぱい決めなきゃならないことが出てくるんですよ。みんなの意見を聞いて、最終決断をするのが仕事ですね。それに、うまくいっていないところがあったら、どうしたらうまくいくのか考える。

ミーティングで講演する市川温子さん=2013年1月9日、市川温子さん提供

 ミーティングは北米と欧州をつないでやるので、開始が夜の10時か11時なんです。忙しいときは毎日、そうじゃないときは週に2回か3回やっています。

――大変ですね。英語でやるんですよね。

 聞き取れないことはしょっちゅうあるんだけど、それは「what?」って聞き直せばいい。日本にある施設で研究する外国人は日本人に慣れているので、聞き直すのは全く恥ずかしくないし、日本人にわかるようにしゃべらないほうが悪いってみんな思っているから、とくに困らないです。

――私は東海村のJ-PARCを見学したことがありますが、加速器も巨大だし、ニュートリノ実験用の装置も大きなものでした。これを造ったんですか?

 はい。加速器から出てくる陽子を炭素にぶつけてニュートリノビームをつくり出すという装置を、(日本の素粒子実験の中心地である)茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構(KEK)で共同研究者たちと一緒に設計・開発して、東海村に設置しました。京大で博士号を取得した後に始めて、KEK助手時代はこれにかかりきり。ヘルメットをかぶって作業着を着て機械の下に這いつくばっていた。

――お生まれは愛知県一宮市ですね。

 家は毛織物工場で、一日中大きな機械がガッシャンガッシャン動いていました。私は子どものころから覚えるのが本当に苦手で、融通がきかないというか、興味のないことはやれない。夏休み、冬休みの宿題が全然できないんですよ。いわゆる成績優秀者に入ったことはなかった。

 ただ、数学と物理だけは覚えなくても解けたので楽しかったし、難しい問題ほど一生懸命やりました。5歳違いの兄が京大理学部に進んで、家にカール・セーガンの『コスモス』や相対論の本なんかがあったので、物理をやりたいと思うようになり、1浪して京大に入りました。

 でも、1年生のゴールデンウィーク明けくらいから大学にほとんど行けなくなった。コンビニでバイトだけはしていましたが、自分を怠け者だと思って、つらかった。だいたい私はいつもウジウジしていて、私の人生に迷いがない時期なんてないんです。

 学部時代は1年生のときが暗黒時代で4年生になるまでに少しずつエンジンがかかった感じ。何となく実験が面白そうだと思えて、物理の大学院に進みました。

 親は早く就職してほしかったんだと思います。「そんなに勉強してどうするの?」みたいなことはよく聞かれた。こちらも、将来、研究者になろうとか、なれるとか、思っていたわけではありません。

――大学院はどうでしたか?

 つらかった。研究室で、私の参加する研究を手伝う助手の方はいなかったんです。教授はテーマをくれて「つくばに行って実験してこい」って言うだけ。「原子核の性質を調べるための検出器を開発する」という実験なんですが、期限までにできないんです。やってもやっても間に合わない。何とか先輩たちに助けてもらって修論を書きましたが、審査員の先生にはボロクソに言われ……。それでも博士課程に進み、修士で始めた実験を続けました。

 博士課程って、普通は3年なんですけど、私は5年かかった。最低限の結果が出るまでにそれだけかかったんです。やっているときは、ずーっとつらかったです。楽しむ余裕は全くなかった。でも、振り返ると楽しかったんですね。先生が放置主義だったのが、私には合っていた。先生のお陰で「自分で何とかしなくちゃいけない」ということをすごく学びました。

 学生を指導する立場になってみると、博士号を取った人の中でも「自分で何とかする人」って少ない。そういう人を育てるという意味で私の先生は偉かったと思いますし、多分そのお陰で私はずっとやってこられたんだと思います。

――博士課程の最後のころに研究対象を変えたんですね?

 このころもウジウジと悩んでいたんです。博士号をとってからどういう研究をするか、本当に自分が打ち込める面白いプロジェクトは何なのか、と。隣の研究室に西川公一郎さんという世界で初めて加速器を使ったニュートリノ実験を始めた人がいたので、ある日、話を聞きにいったんです。「まだ面白いこと何か残っているんですか」って。そうしたら西川さんが「CP対称性の破れだよ、これからは」って。私は「ウワーッ、これだ」ってなった。そういう単純な、わかりやすいものを目標にするのが性に合っていた。

市川温子さん

――単純といっても、説明するの難しいですよ。

 難しいですけど、でもまあ、単純なんですよ。

――物質には必ず反物質があって、宇宙誕生のころ両者は同量だったのに今の世界はほとんど物質ばかり。それは、物質と反物質の対称性が破れているからだと考えられており、それを「CP対称性の破れ」と呼ぶ。しかし、実験で見つかっているCP対称性の破れはわずかなもので、これでは現状を説明できず、物理学の根本に横たわる大きな謎となっている。きっとどこかでもっと大きな破れが見つかるはず、それはニュートリノで見つかるのではないか、ということですよね。

 そうですね。ニュートリノ実験は、それまでやっていた原子核実験と手法としてはあまり変わらなくて、実験としてはどっちも楽しいんです。だけど、目標はこういう大きな話がいいと思った。私、ずっと将来が不安でしたけど、自分の中には「自分はできる人なんじゃないか」という思いもあった。同僚やスタッフと話していて、「自分のほうが深いところまで物理を理解している」と思うときもあったので。

 私が大学院を終えるころ東海村でJ-PARCの建設が始まったんですが、ここにニュートリノ実験施設を造るかどうかはまだ決まっていなかった。これは私がいないとダメな状態にできるなって思いました。

――2001年に博士課程を修了して、2002年7月にKEKの助手に。

 博士号取得後から、ポスドクとしてニュートリノ実験で働いていました。ひたすら施設の建設をやりました。仕事は大変だったけれど、助手になるちょっと前ぐらいから大変さというか、ウジウジする自分を楽しむようになってきました。

――そして2007年に京大の准教授に就任された。

 西川さんが京大からKEKに移って、後任のリーダーになった中家剛さんから京大に来てほしいと声がかかった。でも、まだ子どもが1歳か2歳のときで、「無理だ」と言って一度は断ったんです。

日立シビックセンターのプラネタリウムを訪れた一家3人=2012年7月15日、市川温子さん提供

――いつ結婚されたんですか?

 最初に言ったように私は記憶力がないので覚えていないんですが、たぶん2001年ですね。

――どういうきっかけで?

 いや、別にそろそろもういいんじゃないかっていうことで。修士のころからの同級生です。大学院はすごくつらい日々だったんですけど、それでも何とか続けられたのは彼がいたからというのはあると思います。私に限らず大学院生って割と不安定な状況で、この道でいいのかってみんな悩むところで、そういうとき、励まし合える人がいるというのは大きいと思います。

 長女が生まれたのは、いま18歳なので逆算すると、う~んと2014年、いや違う、2004年12月ですね。

――彼もKEKにいたんですか?

 ちょこっとはいたけど、そのころはもう日本原子力研究所(原研、その後2005年に日本原子力研究開発機構に改組)に就職して、J-PARCの加速器の研究開発をやっていました。

――J-PARCは、KEKと原研が協力して造った大型加速器施設ですからね。

 最初に京大の話をもらったときはつくば市に住んでいて、とても無理だと思ったんですけれど、7年間、施設の建設をやってきて、そろそろちょっと違う研究スタイルにしたいという気持ちはあった。中家さんから「やってみてダメなら戻ればいいじゃない」と言われ、さらに「最初の1、2年は大学の仕事を減らしてできるだけつくばにいられるようにするから」と言ってもらって。実際、どこに所属しようとニュートリノ実験をするにはつくば市や東海村でやる仕事が結構多いんです。

――旦那さんは何と?

「いいよ。子どもの面倒は俺がみるわ」って。子どもが生まれたときから育児は半々でやってました。うちの旦那さんは偉いです。めちゃくちゃ偉いです。そのうち旦那さんの仕事の拠点が東海村になったので東海村に引っ越しました。

――どのくらいの頻度で京都に?

 最初の1年は2週間に1度、1泊するぐらいで、アパートを借りるのももったいないんで、大学の会議室の片隅に簡易ベッドを広げて寝ていました。その後はだんだん京都にいる時間が増えて、週の後半は京都にいて、そこに授業とか実習とか全部集めていました。

――先生として京大生と付き合うことになって、どうでした?

 若いころは自分自身の中に「女でやっていけるのか」みたいな気持ちはあった。なんか、想像がつかなかったんですよ。女性研究者の下に学生が来てくれるのか、とか。自分の偏見だったと思います。実際の学生さんは「女だから」みたいに見ることは全然なかったですね。女だからなめる、みたいなこともなかったし。若い世代だからなのか、そもそも元々そんなふうなのか、わからないですけど。

――なるほど、困ることはとくになかったわけですね。

 そうですね。毎週、行ったり来たりするのが体力的にきつかったですけど。旦那さんは私がいない間はワンオペで育児していたので、それは大変だったと思います。

 育児をしていると家で自分の時間がとれないので、私は最初のころは移動時間にゆっくり考え事ができてリフレッシュになっていた。でも、片道6時間の通勤がだんだんしんどくなって、10年超えたあたりからうんざりしてきました。

――結局、京都との往復を13年続けたんですね。そして、東北大教授になられて、今度は仙台との往復になった。

 片道3~4時間程度になりました。東海道線と常磐線では車窓の景色がすごく違っていて、私は常磐線の景色が好きです。すごくのどかで、ちょっと寂しい感じもするところがいい。

――それでも、体力的に大変そうです。ずっと遠距離通勤を続けるパワーはすごいですね。振り返って、子育てはいかがでした?

 うーん、とにかく旦那さんががんばって、私は語る資格がないかな。高校は毎日お弁当がいるんですが、旦那さんが作ったんです。私は実験代表になって深夜のミーティングをするようになったので、朝6時に起きられない。家ではいろんなことができない「ダメキャラ」で、娘からもお父さんからも当てにされていないです。でも、娘は娘なりに、仕事をがんばっている私をすごく理解してくれている。

 やっぱり、苦労があったというよりも面白かったですね。子どもは自分と似ているところと似ていないところがあって、面白い。

娘とは仲良し親子だ。仕事場にもよく連れて行った=2015年10月14日、東海村のKEK東海キャンパス、市川温子さん提供

――お嬢さんは理科系ですか?

 いや、文系にいっちゃいました。子どものころ、楽しそうな図鑑を一生懸命そろえて、それを楽しそうに見ていたから、理系にいってくれるかなと思っていたんですが……。何で文系なのって聞いたら、古い歴史とか文化に興味があるって言われた。「そんな食っていけそうにないものを」っていう言葉がのど元まで出かかったんですが、ぐっとこらえた。私の親の気持ちがこのときわかりました(笑)。

――実験代表はいつまで?

 たぶん、2期4年やったら交代です。代表を外れたら、自分のプロジェクトとして立ち上げている別の実験にもっと力を入れたい。ニュートリノと反ニュートリノは同じ粒子なのかっていう大問題があって、それを解くための実験です。T2Kは大きな実験プロジェクトに入っていったっていう感じがあるんですけど、こちらは自分のプロジェクトとしてがんばっています。あと、他にもやりたい研究があります。その内容は恥ずかしくてまだ言えないけれど、でもやりたくて、相変わらずウジウジ悩んでいます。

市川温子さん

――実験はチームでやるんですよね。人集めには苦労しないんですか?

 苦労してます、苦労してます。プロジェクトが大きくなって大きな船になると、人は集まってくるんですけれど、うまくいくかどうかわからないプロジェクトにはなかなか集まってこない。規模が大きいので、いくつかの研究室が集まらないとできないんですが、まだ集められていない。

――大変さはそういうところにもあるわけですね。

 そうですね。ただ、この業界、つまり素粒子実験をやる人たちは必ず多人数の共同研究をするので、互いに助け合う風土みたいなものがある。私は周りにいた研究者から裏で相当サポートしてもらいました。その人たちの影響を受けて、いろんな仕事を引き受けてもきました。

 日本では、この業界に女性が少ないですけれど、世界ではもう半分ぐらい女性じゃないかな。日本中にうちの旦那さんみたいな男の人が増えればいいと思います。

市川温子(いちかわ・あつこ)/1970年、愛知県一宮市生まれ。京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了、理学博士(京都大学)。高エネルギー加速器研究機構助手、京都大学准教授を経て2020年から東北大学教授。専門は素粒子実験。世界から500人以上が参加する大型国際実験プロジェクトT2K実験の代表を2019年から務める。優れた女性研究者をたたえる「猿橋賞」を2020年に受賞。