『わかりやすさの罪』の武田砂鉄と、『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の上出遼平による初の対談。「テレビ的なもの」を疑いながら、わかりやすさに抗う物書きに、テレビの境界ぎりぎりを攻めるテレビマンはどう挑むのか。
* * *
上出:ぼくは、武田さんの『わかりやすさの罪』を読んで、絶対に戦っちゃいけない相手に真っ向勝負を挑んでいる感じがしたんですよ。つまり「わかりやすさ」というものに対して。
武田:戦っちゃいけない相手、ですか。
上出:ぼくは、わかりやすさに抗っても勝ち目がないと思っていたので、そこに言及することを避けていたんです。「わかりやすすぎるのはエンターテインメントとしてつまんなくないですか」という方向に逃げていた。だって、ぼくたちは何かを伝える仕事をしているわけですけど、この世界は複雑怪奇にできていますよね。それを伝えようと思ったら、わかりやすくする作業とは切っても切れないじゃないですか。そもそも言葉だって、世界をわかりやすく理解するために生まれたようなもので。
武田:この本自体が矛盾している、という自覚があります。なぜって、「わかりやすさばかりを求めるのって罪なんだよ」ということを、どうしたらわかりやすく伝えられるかをやったわけですから。わかりやすさを論じることへの自分なりの戸惑いもあれば、いまさらそんなことを言わなくてもいいだろうという恥じらいもそのまま混ぜながら、思考をアメーバ状に広げていきました。
上出:わかりやすくするのはサービスの本質でもあるじゃないですか。お客さんに頭を使わせないようにして、負担を減らすという。市場原理に投じたら、わかりやすくすることは当然の帰結というか、そこから逃れられないですよね。
武田:自分と上出さんの大きな違いは、上出さんはテレビを作る側で、自分は見る側です。本来であれば、あまりにわかりやすすぎるものを見たときに、こちら=テレビを見る側が「ちょっとなんだこれ、視聴者をなめんなよ!」って怒らなきゃいけないんですよね。作る側は、こっちを見て番組を作っているわけだから。
<あなたの考えていることがちっともわからないという複雑性が、文化も政治も、個人も集団も豊かにする。>(『わかりやすさの罪』より)
上出:でも結局、作り手からすれば数の話になってきちゃうんですよね。1万人が「なめんなよ」と言っても、100万人が「わかりやすい最高!」と言ったら、そっちに流れてしまう。