「絵で言えば、白という色彩を一番後に加える。そうすると、絵の全体が引き立って、そこに絵が完成するということだな」
子夏は続けます。「では人間の教養の順序でも、『礼』は後、というのと同じ関係ですか?」
つまり、「人間もさまざまな教養を積んだ後に最後に『礼』を加えれば、これまでの教養が引き立ち、人格が完成する」と考えたのです。これを聞いて、孔子は「商(子夏の実名)よ、お前こそわたしの啓発者だ。初めて一緒に『詩経』について論じることができたよ」と喜びます。
小学校、中学校、高校、大学、社会人と成長していく中で、娘さんが学ばなければならないのは、自分が「主役」になることでは決してありません。謙虚さをもって人との調和をいかにつくり、平和で愛に満ちた社会をつくることに貢献できるかということです。それこそが論語の教えの核であり、孔子が「礼」と呼ぶものです。
幼稚園の先生たちは、A子さんを楽な子どもだと思っているのかもしれませんよ。
「この子に任せておけば、何でもうまくやってくれる」と。もし先生たちがそう思っているようであれば、やはりきちんと子どもたちに平等にいろんな機会をつくってもらえるように、他の保護者たちとも相談して、謙虚さを忘れずに園側にお願いをしたほうがいいと思います。その際、相談者さんは、ぜひこの論語の教えを心の片隅にとめていただき、くれぐれもA子さんやA子さんの保護者の方への嫉妬などなさらないように。
「論語」に記された子夏のこんな言葉も、ご紹介しましょう。
「小道と雖(いえど)も、必ず観(み)る可(べ)き者有らん。遠きを致すには恐らくは泥(なず)まん。是(ここ)を以(も)って君子は為さざるなり」(子張第十九)
「たとえ微小な技芸にも、なにかきっと取り柄はあるが、こまごました芸にこだわって遠くまでいこうとすると、かえって泥沼に落ち込んだように抜きさしならないことになる。だから人々の手本たる君子は、技芸を学ばないのだ」という意味です。
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