2022年、悠仁親王が提携校進学制度によって筑波大学附属高校(筑附)に入学した。一方、筑波大学附属駒場高校(筑駒)からは日銀総裁を2代続けて送り出した。なにかと話題になる筑附と筑駒、いったいどんな学校なのか。その成り立ち、出身者から両校の素顔を見てみよう。本稿では筑附を紹介する。<後編「筑駒はなぜ秀才が集まる学校になったのか? 歴史とOBからみる学校の『素顔』に続く」
【表】筑附と筑駒、両校の東京大合格者数推移はこちら(全4枚)筑附は1888(明治21)年に、高等師範学校尋常中学科として誕生した。のちに東京高等師範学校附属中学校(高師附属中)となる。旧制の中学校は13歳から17歳まで在学する5年制であり、現在の高校にあたる。
当初から東京高等師範学校(教員養成機関、現在の筑波大に継承)の学生の教育実習校、旧制高校や商業学校(現在の大学)などへの進学校という看板を掲げていた。
官立=国が作った学校ゆえ、日本の教育のモデル校とされ、国会議員や皇室が視察することがあった。市区町村立の学校とは違うとばかり、高師附属中はブランド力を持ち、明治、大正、昭和初期を通じて教育熱心の保護者からは絶大な信頼を得る。官僚、大企業経営者などに人気があった。
野球で全国ベスト4になったことも
実際、入試はかなり難関だった。
1933(昭和8)年、高師附属中入試は、志願者712人、合格者49人、志願倍率14.5倍という超狭き門である。1929年に旧制高校、医科大に約60人進学しており、その実績を見て、親も子も「ここに入ればいい大学に進める」と思ったのだろう。エリート教育を期待され、人気はうなぎ登りだった。進学校・筑附の原点はすでにできあがっていた(データは『創立百年史』筑波大学附属百年史、1988年)。
意外なことに、高師附属中は「全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)」に出場している。1946年にベスト4まで進んだ。筑附は出場経験を誇っていい。
1949年、戦後の新しい教育改革のもとで、高師附属中は新制の高師附属高校を経て、東京教育大学附属高校(教附)となった。女子を受け入れ、旧制時代の男子校は共学になった。
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