運動会での一致団結に象徴される仲間意識が強い開成、制服がなく個性を思いっきり発揮できる麻布――。それぞれに優秀な子どもたちが集まる両校だが、校風の違いはどこから始まったのだろうか。開成、麻布の歴史を眺めてみよう。本稿では麻布の歴史を紹介する。<前編「開成が「東大合格者数日本一」になった3つの背景とは? 学校の歴史から読み解く」から続く

MENU 戦後は開成より東大合格者数の伸びに勢い 日比谷線開業が「追い風」 開成OBと麻布OB

戦後は開成より東大合格者数の伸びに勢い

 麻布高校は、1895(明治28)年に開校した。

 麻布は、東洋英和学校(現、東洋英和女学院高等部)の校長だった江原素六が同校から独立して開設した。麻布尋常中学校を名乗っていた。東洋英和女学院はキリスト教系だが、麻布は開校当初から今日まで、宗教色はない。

 私立学校を発展させるためには進学実績を高めることが重要な要因となる。それは、現在でも変わらないが、130年前から、麻布は経営戦略的に進学実績を重視していた。1890年代、麻布は旧制第一高等学校(一高、東京大)の「特別連絡」校となるべく、関係者に働きかけたのである。「特別連絡」とは尋常中学校から一高などに無試験入学できる推薦制度である。今でいえば指定校推薦である。麻布は東京大の指定校推薦枠を得たといっていい。まもなく「特別連絡制度」は廃止されるが、一高など旧制高校への進学実績は高かった。1898年、一高に5人、二高(現・東北大)4人、三高(現・京都大)2人が合格している。好調な滑り出しといっていい。

学校、大学通信、旺文社など各種データから算出(1943年までは旧制第一高等学校。1949年に新制・東京大に継承)
学校、大学通信、旺文社など各種データから算出(1943年までは旧制第一高等学校。1949年に新制・東京大に継承)

 戦後、麻布は開成よりも東京大合格者数の伸びに勢いがあった。

 1949年から2024年までの約4分の3世紀、上位30校に入っているのは麻布だけである。1961年以降、50人以下になったことはなく、灘や開成もこの域には達していない。開成との比較では、​1968年までほぼ麻布が上回った。

学校、大学通信、旺文社など各種データから算出
学校、大学通信、旺文社など各種データから算出

 進学校であり続けたのにはさまざまな要因がある。旧制中学時代からの評価がそのまま戦後に続いていることもあるが、開成同様、交通網の整備、都立高校学校群制導入が大きかった。

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小林哲夫
教育ジャーナリスト 小林哲夫

1995年より『大学ランキング』の編集者。『筑駒の研究』(河出新書)、『学校制服とは何か その歴史と思想』 (朝日新書)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『旧制第一中学の面目』(NHK出版新書)、『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『早慶MARCH大激変 「大学序列」の最前線』(朝日新書)など、教育・社会問題についての著書多数。

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