新制高校となっても、国立大学付属校に対するブランド力は揺るがなかった。東京教育大学附属中学、附属高校の入試は最難関で、開成、麻布、武蔵、慶應義塾などの私立進学校がすべり止めとされた時代が続いた。優秀な生徒が集まったことで、難関大学合格者は年々、増加する。

 教附からの東京大合格者は1954年32人→57年48人→60年57人→63年82人→67年85人。

東大合格者が全国一に

 1960年代後半、都立高校に学校群制度が導入され、日比谷、西、戸山など進学校を自由に選べなくなり、教附には、これまで都立トップ校に進んでいた優秀な生徒が集まった。

 東京大合格者は1970年105人を数え、71年には125人となり、全国一となった。

 このころ、教附は生徒からの要望に応えて、制服を廃止する(高校のみ)。教附の生徒気質について同校教員はこう話している。

「生徒もわれわれが心配するほどノンビリしていまして、高三からようやく受験体制に入るような具合で。補習はしませんが、予備校へ通う生徒は多くなったようです。ま、いい意味での伝統のせいで東大へ受かるわけで、生徒のツブは世間でいうほどそろってはいませんよ」(「週刊現代」1975年4月10日号)

 学校では特別な受験対策を行っていない、と言いたげだが、ブランド力はまったく揺るがなかった。1977年、イギリスのサッチャー氏(後の首相)が教附を訪問している。やはり普通の学校ではない。

 1978年、東京教育大が筑波大に引き継がれたことで、教附は筑波大学附属高校(筑附)となる。

 筑附と筑駒の決定的な違いは、共学、男子校という違いである。

「全国模試1位」の女性政治家も

 筑附からは元気な女性が出ている。

 俳優の檀ふみは(1973年卒)は1年浪人後、慶應義塾大に進んでいる。

 国会議員の片山さつき(1978年卒)も卒業している。東京大法学部から大蔵省(現・財務省)に進んだ。こんなエピソードがある。両者を知る政界関係者が、片山の教附の先輩で国会議員だった故・鳩山邦夫(1967年卒)とのやりとりを語る。

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