【羽幌線】1987年3月30日廃止。道北の西側海岸部を通り、留萠本線(現・留萌本線)の留萠駅(現・留萌駅)と宗谷本線の幌延駅を結んだ/1970年9月撮影(写真・朝日新聞社)
【羽幌線】1987年3月30日廃止。道北の西側海岸部を通り、留萠本線(現・留萌本線)の留萠駅(現・留萌駅)と宗谷本線の幌延駅を結んだ/1970年9月撮影(写真・朝日新聞社)

「EF63はパワーそのものもそうですが、スリップしない工夫があり、登場間もない子どもの頃、車輪をロックして滑走しても対処できるように電磁石でレールを吸着するブレーキには感心しました」(松本さん)

 横川駅に隣接した横川運転区跡地には99年にテーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」(群馬県安中市)がオープン。碓氷峠で活躍した車両たちが展示され、日本で唯一、EF63の運転体験もできる。同むらの事務局長の小崎(こざき)正人さんは言う。

「横川~軽井沢間には、当時の最先端の技術が詰め込まれた鉄道遺産が数多く現存しています。当時の繁栄を色濃く残していることが魅力で、懐かしさを求めて訪れる人が後を絶ちません」

 軽井沢と横川の両駅では、アプト式に対応した機関車の付け外しをするため、停車時間が長くなった。この停車時間を利用して横川駅で58年から販売されるのが、駅弁の代名詞にすらなった「峠の釜めし」だった。

【東急玉川線(玉電)】1969年5月10日、渋谷―二子玉川園が廃止。同区間を走った200形電車。「ペコちゃん」などの愛称も/1955年10月撮影(写真・朝日新聞社)
【東急玉川線(玉電)】1969年5月10日、渋谷―二子玉川園が廃止。同区間を走った200形電車。「ペコちゃん」などの愛称も/1955年10月撮影(写真・朝日新聞社)

 多くの「路面電車」も姿を消した。かつては都市交通の要として全国に70以上の路面電車が走っていたが、60年代、自動車が普及すると一気に姿を消した。どれも独特の美しさがあり、「もう一度見たい」と思うものも少なくない。その筆頭は、東京の渋谷~二子玉川園間を結んだ「玉川電気鉄道」、通称「玉電」だろう。今の玉川通り(国道246号)を走っていた。

「二子玉川から渋谷まで往復で25円。高くてなかなか乗れなかったけど、乗れた時は、はしゃいじゃって」

 と述懐するのは、東京都世田谷区に住む大塚勝利(かつとし)さん(77)。玉電の終着駅だった二子玉川園駅近くで2011年までそば屋を開き、今はそこに資料館「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」を開いている。

 玉電の開業は1907(明治40)年。25年には、三軒茶屋と下高井戸を結ぶ支線も開通。38年に東京横浜電鉄(現・東急)に合併され「東急玉川線」となった。大塚さんは地元の農家に生まれた。家が貧しく、電車にはあまり乗ることができなかった。それだけに、子どもの頃は乗れた時はうれしくて仕方なかったと振り返る。

「特に200形と呼ばれた電車は、運転台の横に椅子があって、先頭に乗れるんです。それに乗りたくて、停留所で来るのをずっと待ってました」

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交通弱者の「足」となり