米本浩二(よねもと・こうじ)/1961年生まれ。新聞記者を経て著述業。著書に『みぞれふる空──脊髄小脳変性症と家族の2000日』、『評伝 石牟礼道子──渚に立つひと』、『不知火のほとりで──石牟礼道子終焉記』(撮影/江藤大作)
米本浩二(よねもと・こうじ)/1961年生まれ。新聞記者を経て著述業。著書に『みぞれふる空──脊髄小脳変性症と家族の2000日』、『評伝 石牟礼道子──渚に立つひと』、『不知火のほとりで──石牟礼道子終焉記』(撮影/江藤大作)

 AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。「書店員さんオススメの一冊」では、売り場を預かる各書店の担当者がイチオシの作品を挙げています。

『苦海浄土』の作家・石牟礼道子と、地方の文芸誌編集者として道子の執筆を支えながら水俣病闘争に身を投じた渡辺京二。2人の半世紀の共闘と愛を、秘められた日記や書簡、発言から描いた『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』が刊行された。著者の米本浩二さんに、同著に込めた思いを聞いた。

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 大学卒業後に毎日新聞社へ入った米本浩二さん(60)。西部本社で九州中心に取材活動を続けるうち、水俣病の家族や患者の苦しみを描いた『苦海浄土(くがいじょうど)』の作家・石牟礼道子と、彼女を支えた歴史家・編集者でロングセラー『逝きし世の面影』の著者でもある渡辺京二の知己を得た。2人の取材を重ね、執筆した評伝『評伝 石牟礼道子──渚に立つひと』で読売文学賞を受賞。だがそれだけでは満足できなかった。彼らの関係には水俣闘争の伴走者である「聖女」とその「同志」という通説に収まり切れない、長い愛情の歴史があると知ったからである。晩年、長く病んだ石牟礼を介護したのも渡辺だった。

「何しろ渡辺さんは、40年ほど毎日道子さんのところへ通っていました。3時頃から晩ご飯を作り、片付けもして、家に帰るのは11時過ぎ。奥さんもお子さんもいらっしゃるのに。なぜそうするのかとずっと謎でした。渡辺さんから道子さんに宛てた手紙があるのを知って腑に落ちたんです。彼らはとても孤独な人たちでした。宇宙を抱えているような孤独感があって、しかも渡辺さんはフォークナーを愛する詩人性・文学性のある人。だから道子さんと共振できたのでしょう。私も卒論がフォークナーという文学好きだったので、2人といろいろな話ができたのだと思います」

 新たに2人の関係を書きたいと言った米本さんに、渡辺さんは「今までも十分書いているじゃないか」と難色を示す。だが、米本さんが既に書いていた第3章「魂の章」を見せると態度が変わり、「実は水俣病闘争に参加したのも道子ありきだった」と告白する。その後は日記や手紙を託して自由に書かせてくれた。

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