ホワイト氏は膨大なデジタルデータを弁護人から見せられ、無罪を確信した。「すべての記録は、自分たちが重大な暗殺事件の実行犯に仕立て上げられていることを、2人がまったく理解していなかったことを示していた。自分たちがテレビ番組に出演していると、犯行時まで信じ込んでいた」

 マレーシア捜査当局は北朝鮮人8人が事件に関与したと発表。しかし4人は事件直後に国外に逃亡し、逮捕した1人も証拠不十分として釈放され、大使館員も含め8人全員が出国した。北朝鮮に戻ったとみられる。

 マレーシアでは、実行犯として残された2人に対する公判が続いた。殺人罪が認められれば死刑判決の可能性もある中で進む裁判を、映画は法廷サスペンス劇のような緊迫感を込めて描く。「情勢は2人に不利だった。死刑になるかもしれないと思いながら取材するのは、とてもつらく悲しかった」とホワイト氏は振り返る。

 芸能界を夢見たフォン被告は事件後、故郷で「世界は美しくみんな優しいと思っていたけど、いまは本当の世界がよく見える。今後は人を簡単に信じないよう気をつけたい」と語っている。ホワイト氏は「他人を信頼する心が彼女から奪われたと思うと、胸が痛む。しかしこの作品は、他人を信じすぎると世界がどんなに危険な場所になるかということを示している」。

 映画は7月に米国内で公開予定だったが、コロナ禍のため延期された。10月10日に東京などで劇場公開されるのが世界初となる。作品は2人に焦点を当てており、北朝鮮関係者の動向が詳細には明かされないため、見終わった後も疑問は消えない。(朝日新聞編集委員・北野隆一)

>>【後編:「反抗者は逃がさない」と金正男氏暗殺で示した北朝鮮 実行犯が“口封じ”されない背景に日本の拉致問題も】へ続く

AERA 2020年10月5日号