「夜は水路の図面をひきながら眠りに落ちたりして、しばらくベッドで寝た覚えがないね。日本人スタッフがいなくなって会議がなくなった分、物事は早く進むようになったけど」

 笑みを浮かべて話す中村医師だが、表情には疲労がにじむ。
 
■干ばつは戦争より深刻

 同会が特に力を注いでいるのは水路建設だ。2000年以降の度重なる干ばつで、アフガニスタンは危機的状況にある。500万人が飢餓の線上にあるという報告もある。

 中村医師は「干ばつは戦争より深刻」ととらえ、03年から水路づくりを地道に進めてきた。当面計画している30キロのうち、これまでに約20キロを整備。一時2万人にまで落ち込んでいた一帯に、20万人の干ばつ難民が帰還したという。水を求めて子どもたちが泥水をすする光景はなくなった。

 「少し前までここが砂漠だったなんて信じられないでしょう」

 目の前に広がる美しい小麦畑をながめながら、中村医師は何度も繰り返した。

 現地の人たちは、中村医師を「ドクター・サーブ(お医者様という意味)」と尊敬の念を込めて呼び、

 「日本人はアフガニスタンの本当の友人だ」

 と口をそろえた。外国人への敵対感情が日増しに高まるこの国では、驚くべきことだ。それほどペシャワール会の活動は高く評価されている。

 伊藤さんが殺された事件で、中村医師は日本社会から「安全管理が甘かったのではないか」との批判も受けた。だが、現地に根づいて集めた情報に基づき対応してきた同会のやり方は、日本では理解し難いだろうが、部族社会のアフガニスタンではこれ以上ない安全策なのだ。

■資金面への打撃はなし

 中村医師は、伊藤さんが亡くなったことやアフガニスタンの現状に心を痛めながら、

 「干ばつは待ってはくれない。救える命は救わなければ」

 と、会の活動を一層推し進める必要性を強く感じている。

 その活動を支えてきたのは、日本全国1万3千人の会員から寄せられる年間3億円近い会費と寄付金だ。事件後も資金面への打撃はないというが、福元満治事務局長(60)は、

 「土木工事は巨大な事業に膨れ上がっており、スケジュール管理や経理などの事務処理が滞ることは必至でしょう」

 と心配する。アフガン人のスタッフ約500人を束ねてきた日本人スタッフの不在は、やはり大きな痛手なのだ。

 会は、新たに連絡事務所を福岡市に設置した。帰国した日本人スタッフらを中心に現地との連絡や事務作業に本腰を入れ、孤軍奮闘する中村医師の負担をできるだけ減らす方針だ。

 「将来的には、また日本人スタッフにアフガニスタンに入って活動してもらおうと思っています。ただ、その時期がいつになるか今は何とも言えません」

 と、福元氏は話している。(アジアプレス・白川徹、ライター・中村ひろみ)

※AERA 2008年12月15日号を再掲載

AERA12月16日号(9日発売)では、ジャーナリストの古田大輔氏による寄稿を掲載。中村哲医師が支援を始めたきっかけや現地に残り続けた理由について、中村医師やぺシャワール会の話をもとに2ページで掲載します。