田島道治の「拝謁記」から。サンフランシスコ講和条約発効による独立回復を祝う1952年5月の式典で読み上げるおことばについて、昭和天皇が同年1月、戦争の反省に触れ「反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったと記されている (c)朝日新聞社
田島道治の「拝謁記」から。サンフランシスコ講和条約発効による独立回復を祝う1952年5月の式典で読み上げるおことばについて、昭和天皇が同年1月、戦争の反省に触れ「反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったと記されている (c)朝日新聞社
田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社
田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社

 戦後、昭和天皇と約600回にわたり面談をした初代宮内庁長官による「拝謁記(はいえつき)」が見つかった。「ネー」などのしゃべり言葉もそのまま残されており、研究者の古川隆久・日大教授は「当時の天皇の心情がよくわかる」と話す。

【写真】田島道治

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 戦争について後悔する発言も、たびたび記されている。とくに満州事変前に軍部が暴走するきっかけとなった張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件(28年)や、太平洋戦争の開戦(41年)については何度も出てくるという。

 たとえば51年6月8日には「張作霖事件の処罰を曖昧ニ(あいまいに)した事が後年陸軍の紀綱のゆるむ始めニなつた。張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が今日(こんにち)の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」とある。

 日中戦争時の37年に非戦闘員の殺害や略奪があった南京事件についての発言は、初めて明らかになった。52年2月20日に「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋(そのすじ)でないものからウスウス聞いてはゐたが別ニ表だつて誰れもいはず従つて私は此事(このこと)を注意もしなかつたが市ケ谷裁判(東京裁判)で公ニなつた事を見れば実ニひどい」と記されている。

「天皇は戦前や戦中の後悔が頭を離れず、何度も戦争を振り返っています」と古川さんはみる。戦争を回顧する発言の記録には、46年に5人の側近が聞き取り、90年に公開された「独白録」や、田島が長官時代の53年から作成が始まったが現在も未公開の「(聖談)拝聴録」がある。「独白録や拝聴録は、側近が天皇の話を時系列に整理したり、取捨選択したと考えられます。一方で『拝謁記』は話の重複や飛躍も省略せずそのまま記され、天皇の心の動きや何を気にしていたかがよくわかるものです」と古川さん。

 サンフランシスコ講和条約発効を祝う52年5月3日の式典で読み上げる「おことば」について、昭和天皇は1月11日、「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」などと強く主張した。

 おことばの草稿に戦争を悔やむ一節が挿入されたが、吉田茂首相らの反対で削除された経緯については、ノンフィクション作家の加藤恭子氏の『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』などの先行研究がある。今回の「拝謁記」により、天皇が「矢張り過去の反省と将来自戒の個所が何とか字句をかへて入れて欲しい」(同2月26日)と訴えるなど、繰り返し「反省」にこだわったことがわかる。

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