──反発した人たちはどこに「不安」を感じたのでしょうか。  

 私は「勝者の不安、敗者の不満」と言っています。勝者って勝ち続けなければならないんです。成績で一番取って、親から「よかったね。頑張ったね」と褒められた直後、「次もね」と言われる。でも、次も一番を取れる保証はないんですよね。

 強者側にいる人たちは、男女平等を言うフェミニズムに対して「弱者であるお前たちが、俺らと同じ強者になりたいのか」と、自分たちの地位を脅かされる不安を感じるんですね。でもそれは完全に誤解です。例えば、妊婦、障害者、子ども、お年寄り。強者になれない人はいっぱいいるでしょ。その人たちに「強者になれ」って言わないでしょ? それに強者だっていつか年をとれば弱者になる。そこまで言ってやらないとわからない。

 フェミニズムに対するもう一つの誤解は、「俺らと同じになりたいわけ? じゃあ女捨ててかかってこいよ」っていうもの。若い女たちも「フェミって男と同じようにふるまいたい女のこと? ばかなおネエさんたち」って思ってきた。おっさんメディアが自分の間尺に合わせてフェミニズムを理解し、間違ったイメージを流通させてしまった。人は自分の器に合わせてしか、相手を理解しないものです。

 私は「強者・弱者」を「差別者・被差別者」と置き換えると分かりやすいと思っています。「フェミニズムは、被差別者が差別者になろうとする思想ではありません」って。差別そのものをなくしたいだけ。そういえば、わかりやすく理解してもらえるんじゃないかな。でも、その差別から利益を得ている人たちもいますからね。

──努力を否定するのか、という批判もみられました。  

 がんばりだけでなく、「がんばれば報われる」と思える、そのメンタリティーそのものが環境の産物であることを忘れないでと伝えました。その裏側にあるのが「どうせ、しょせん、女の子だし」と水をかけ足を引っ張る“意欲の冷却効果”です。そうやって気持ちをくじかれる。足を引っ張られて本当はやりたいことを選択できなかったとしても、ネオリベラリズムのもとで「自己決定・自己責任」の原則は深く浸透しましたから、「結局お前が選ばなかったんだろう」と言われる。東大女子が2割以下なのも「応募者が増えないから仕方がない」と。「自己決定・自己責任」がここ数十年のうちに強く内面化され身体化された結果、自分を責めるほかなく自傷系の学生が増えたという体感があります。

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「賢い女」の伝統芸能