千葉県旭市で避難生活をしている人たちに声をかける天皇、皇后両陛下=2011年4月 (c)朝日新聞社
千葉県旭市で避難生活をしている人たちに声をかける天皇、皇后両陛下=2011年4月 (c)朝日新聞社
岩手県宮古市で、バスの中から被災者たちに手を振る=11年5月 (c)朝日新聞社
岩手県宮古市で、バスの中から被災者たちに手を振る=11年5月 (c)朝日新聞社
茨城県北茨城市で被災者に声をかける=11年4月 (c)朝日新聞社
茨城県北茨城市で被災者に声をかける=11年4月 (c)朝日新聞社
天皇、皇后両陛下の被災地訪問(AERA 2018年4月2日号より)
天皇、皇后両陛下の被災地訪問(AERA 2018年4月2日号より)

 東日本大震災から7年。天皇、皇后両陛下は各地の被災地を繰り返し訪れてきた。お二人を「祈りの旅」に駆り立てたものは何なのか。長く取材を続けてきた朝日新聞社会部の記者たちが現場を歩き、その答えを探した。

【写真】バスの中から被災者たちに手を振る天皇、皇后両陛下

*  *  *

 2011年3月11日。天皇陛下は、皇居の宮殿で皇后さまと、その瞬間を迎えた。天皇陛下はテレビのスイッチを入れ、災害ニュースをじっと見続けた。

 できるだけ早く現地に見舞いに行きたい──。天皇陛下は発生後、間もない頃から側近らに希望を伝えた。東京電力福島第一原発事故で東京と埼玉に避難した人々をまず見舞い、ついで千葉、茨城の被災地、それから東北3県を訪問するというのはどうか──。具体的なプランを示した。

 3月30日、思いを実行に移す。両陛下が東京都足立区の東京武道館を訪れ、避難者288人を見舞った。うち269人が福島からの避難者だった。

 この休憩時間の時のことだ。両陛下を案内した石原慎太郎東京都知事(当時)は東北3県の様子を「悲惨で、想像を絶する」と説明し、「被災地は若い男宮を名代(みょうだい)に差し向けてはいかがでしょう」と提案した。

 天皇陛下は黙っていた。だが、見舞いを終えて武道館を出る際、石原都知事に歩み寄ってこう告げた。

「東北は、私が自分で行きます」

 翌4月27日、東北3県の訪問の最初として、宮城県を訪れた。被災していた仙台空港が使えなかったため、自衛隊機で航空自衛隊松島基地に到着。昼食について、宮内庁からは両陛下の意向として「隊員がふだん食べているカレーライスで」との希望が事前に伝えられていたが、箱弁当となった。当日はブルーインパルス50周年記念でつくった若狭塗箸が出された。基地側は両陛下が使った後、記念に保存する心づもりだったが、皇后さまは「これはなんですか」とたずね、箸を大切に持ち帰ってしまったという逸話もある。

●歓迎ばかりでなかった訪問原点は伊勢湾台風

 天皇陛下はいつごろから被災地訪問を続けているのだろう。原点とも言えるのが1959年10月、皇太子時代の伊勢湾台風の被災地訪問だった。暴風雨と高潮で愛知、岐阜、三重3県の平野部が泥水につかり、死者・行方不明者は約5千人。被災者は100万人以上と甚大な被害を出した。

 昭和天皇の名代(みょうだい)として訪問したものだが、当時は皇族が被災地を訪れた前例が少なく、歓迎の声ばかりではなかった。訪問前の新聞には「皇太子視察は考えもの」という題の投書が載り、「キレイごとの視察見舞いは、被災者の沈痛な心理に逆作用を起こすおそれがある」と厳しい内容だった。

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