高知龍馬空港から車で約3時間。高知県土佐清水市の足摺岬近くの山道を分け入ると、その古民家はある。

 ここで妻子とともに自給自足の暮らしをするのが、木村俊雄さん(48)だ。昨年の東日本大震災の後、福島県大町から移り住んだ。

「高知に来て、自由を感じました。福島にいるときに感じていた重いものが取れたような。僕がこうやってメディアで原発や東電について話しても、高知では、周囲の人は誰も何も言わない。東電のお膝元では自由じゃなかった。住民も依存体質が染みついていて、自分たちで何かしようとか、何か考えようという雰囲気がまるでなかった。『原発に明日はないよ』なんて僕が言ったら、頭がおかしい人だって思われていましたから」

 木村さんは、2000年に退職するまで約17年間、東京電力の社員だった。後半の約12年間は、まさに福島第一原発の炉心が仕事場だった。

「炉心には400~800体の燃料集合体があって、定期検査では4分の1を交換します。残りは配置を換えることで、いかに効率よく発電できるかが決まる。それを考えるのが仕事でした。発電単価が下がれば会社に貢献できるし、仕事は面白かった。でも、ずっと腑に落ちなかった。毎日炉心と向き合っているから、はっきりとわかるんです。処分の仕方も決まっていない高レベル放射性廃棄物がどんどん作られていくことが」

 原子炉内でどんな物質がどれだけ生成されているかを計算し、科学技術庁や国際原子力機関(IAEA)に報告する仕事を担当したこともあった。

「例えば、プルトニウムなどの核物質が130トンできた時、報告書はグラムで記載するから7個ものゼロがつきます。自然界には存在しない、得体の知れない物質をそれほど大量に生成していいのか。仕事に対する違和感はずっと消えませんでした」

AERA 2012年10月15日号