『諜報と謀略の中国現代史――国家安全省の指導者にみる権力闘争』
朝日選書より発売中

 日中戦争期に活躍した中国共産党の情報機関の指導者・潘漢年の名を初めて知ったのは、1997年秋のことだ。当時、私は2年弱にわたる中国での留学生活を始めたばかりだった。ちょうどその頃、潘漢年の半生を描いた連続テレビ・ドラマがゴールデンタイムに放映されていたのである。私は留学生寮の食堂のテレビで、一食100円にも満たない定食(パサパサの白米や脂身だらけの肉の炒め物など)を食べながら、潘漢年のドラマを見ていた。中国で初めて見たドラマだったからだろうか、セリフが全くと言ってよいほど聞き取れず、訳が分からなかったにもかかわらず、当時の私になぜか大きな印象を残した。

 中国共産党の情報機関は1920年代後半の設置以来、欧米諸国の情報機関と同様に、外国勢力に対して諜報工作などを仕掛けてきたが、他方で毛沢東ら実力者による権力の掌握・拡大のためにも多大な貢献を行なってきた。

 毛沢東の権力拡大のために最も寄与した情報機関の指導者は潘漢年の上司・康生だ。康生は『鬼滅の刃』に登場する鬼のボスのような人物だった。実際、かつての同僚・陳雲から「康生は人間ではなく鬼だ」と言われ、伝記作者からも「地獄の王」と名付けられているのである。康生は生涯、党幹部から一般市民に至るまで幾千万もの人々を粛清してきた。いざとなれば、友人を血祭りにあげることさえ躊躇しなかった。太陽神の化身のように崇められていた毛沢東を支えていたのは、康生のような鬼のボスだったのである。

 一方、潘漢年は鬼のボスに仕える鬼にはならなかった。潘漢年は欧米のスパイ映画に登場するヒーローに近い存在だったと言える。両者の間に違いがあるとすれば、ジェームズ・ボンドが女王陛下に、トム・クルーズ演じるイーサン・ハントが星条旗に、それぞれ忠誠を誓っているのに対して、潘漢年は中国共産党に忠誠を誓っていたという点だ。またボンドやハントが華麗な拳銃さばきで機密情報を入手するのに対して、潘漢年は丸腰ながら知略の限りを尽くしてそうしたことを成し遂げたという点だ。

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