とても愛着の深い本に仕上がったと思う。本の刊行を前にして、こんなに心が浮き立つのは、久し振りのことだ。この本の誕生を待ちわびている人たちが、たくさんいる。会津の女衆が創った、手放しに幸せな本なのである。東日本大震災の前から、奥会津のあちこちを不思議な話を求めて歩きまわった会津学研究会のメンバーたちも、表紙の絵や百枚の挿絵を描いてくれた岩崎亜弥さんも、みな会津に生まれ育ち、いまも暮らす女性たちだ。

 そして、もちろん、ほんとうの主役は会津に生きる人々である。それぞれに、ほんとうにあった不思議な話ばかりを怖ず怖ずと分けてくれた語り部たちだ。柳田国男が『遠野物語』を創るときにこだわった事実譚、つまり、その人が事実として体験した出来事についての真っすぐな語りに、柳田よりも徹底してこだわり、それだけを百話集めて、一冊の本に編んでみた。会津の女たちは、佐々木喜善(きぜん)に負けず劣らず「誠実なる人」であった。あきれるほどにウソをつくのがへたくそな人たちだ。

 会津の村々でひっそり語り継がれてきた不思議な話を集めてみよう、思えば、それが合言葉だった。じつにシンプルで、まるで芸がない。キツネに化かされた、いや馬鹿にされた話が三十、四十、五十と集まってくるのに、たいして時間はかからなかった。朝日新聞福島県版での連載を見かけた人たちが、重かった口を開きはじめたのである。そのとき、たとえば会津という土地に埋もれ、やがて消え失せようとしていた古層の記憶がいっせいにあふれ出したのだと、いまにして思う。この人々は、ついこの間まで、不思議や神秘のかたわらに当たり前に暮らしていたのである。

 キツネに馬鹿にされた、という語りに触れて、ほとんど震撼させられた。化かされるのであれば、人間よりも大きな超自然的な何ものかと妖(あや)しにみちた遭遇を強いられたのだ、と考えればいい。だが、馬鹿にされる、のだ。人とキツネはそこでは、身の丈が変わらぬ生きものとして隣り合い対峙している気配がある。不思議や神秘は、いまよりずっと身近に転がっていたのだ。

 そう言えば、この春、大学で新入生を迎えるスピーチをする機会があった。そのなかで、わたしは『会津物語』から、もっともお気に入りの「大きな白い鳥」という話を朗読してみたのだった。800字ほどの短いお話である。届くだろうか。不安はあった。現代っ子にはいささか遠い田舎くさい話かもしれない。わたしはそのとき、今の時代には言葉がとても愚弄されている、だからこそ、日本語や日本文学を学ぼうとしている君たちには、言葉のもつ繊細さや奥深さにたくさん触れてほしいと願っている、といったことを話した。そのあとに「大きな白い鳥」を朗読したのである。

 あえて、その内容は紹介しない。その2週間後に行なわれた懇親会の場で、何人かの新入生たちがそばに寄ってきて、「あのお話、とてもよかったです。あんなところで、と思いながら、泣いてしまいました」と話しかけてくれたのだった。じつは、わたし自身が編集作業のなかで、思わずその話に涙していたのである。だから、眼の前の若者たちの心に響いたことは、けっして意外ではなかった。しかし、そうして何人かの新入生が、わざわざ感動したことを伝えてくれたことに、わたしはまた涙が出そうなほどに嬉しかったのだ。豊かで、繊細で、深い言葉はきちんと伝わる。そして、ある確信をもったのである。この『会津物語』に収められた話のうちの、少なくとも何編かは、きっと文学として立つことができているにちがいない、と。それこそ、編者としてのわたしが目指したことであった。

 あの『遠野物語』が刊行されてから105年目の夏に、因縁浅からぬ会津の地から『会津物語』が刊行される。それはまた、東日本大震災から5年目の夏でもある。わたしたちは東京電力福島第一原発の爆発事故がもたらした残酷なる不安に抗いながら、みなで、会津物語を探す旅へと出立したのだった。キツネと原発とが対峙する構図といってみる。笑われてもいい。すくなくとも、会津の女衆は、そしてわたしは、不思議な物語の群れにたいして、敬虔な思いを新たにしながら、身の丈の知恵や技や心によって生かされる世界を再建したいと願っている。

 映画監督の高畑勲さんからは、帯文をいただくことができた。会津の女衆がどんなに喜んだことか。わたしはひそかに、高畑さんの美しいアニメ映画『かぐや姫の物語』と、わたしたちの『会津物語』とは、深い縁(えにし)によって結ばれていると信じている。わたしたちはこれから、どこに向かって生きてゆくのだろうか。志をともにする人々との出会いをもとめて、いくつもの対話を、挫けず、あちこちで組織してゆかねばならないと思う。