癖のあるエンブレムをあしらった旗、ユニフォーム、タオルマフラーなどが客席を埋める中、観客たちは、試合前に権現舞を披露するなど、自分たちの地域らしい面白がり方で応援をする。いわゆる東京的な価値観を追うのでも、アンチ中央を意識するあまり却って流行に縛られるのでもない逞(たくま)しさが滲み出た、地方讃歌の小説なのだ。観客たちが食べる、地域ごとのスタジアムグルメもおいしそうだ。

 試合中、ボールは累計で凄い距離を移動する。観客は、映像で切り取られた形でなく、眼や体を使って自らこれを追い、時にはボールに触れていない選手の抜け目ない動きなどにも焦点を合わせる。見つめることは能動的なのだ。

 本作では、サッカーの試合がはらむ一回限りの危うさや激しさは、観客の人生そのものの一期一会の壊れやすさともほとんど並列的に語られている。だからこそ、視点の移動距離という意味では、それぞれ長い旅をしているかのような観客たちは、ボールが飛び交うゲームを追いながら、どこかのところで日常生活のごたごたを考えたりもする。

 想念だって駆けめぐるのだ。そんな奥行きを読むと、スタジアムでは、直に見えない感情の応酬なども含め、物凄くたくさんの出来事が起きているのだと思わされた。読み終えると、感情があちこち転がったぶんだけ、それぞれ抱える心の中の空間も広がった、みたいに感じもしたのだ。

 観戦とは能動的な行為であり、物事をよく見ることは心の網の目を細やかにしてくれる。そう思ったのは、登場人物たちが、日々の生活で抱えた苦境を、解釈し直すことで乗り越える場面が印象的だったからだ。チームの勝敗を受け容れるように、操作できない現実をじっくり見つめる。精確に観察しなければ見逃していたかもしれない僥倖(ぎようこう)に気づく。そういうのも立派な戦いの姿だよなと感じたのだ。

 読了後、取材を生業(なりわい)にする私としては、かつて津村さんに「登場人物たちが、形はちがえどくそみたいな日常をちょっとでもましなものにするような負荷の切り抜け方が見たい」(拙著『仕事の小さな幸福』より)と聞いたことを思い出した。主人公たちが能動的に「見つめる」ところから展開する、綺麗事ではない「救い」も描かれた傑作だ。