60歳といえば、かつては爺(じじい)もいいところだった。
だが、自分の父親が還暦を迎えたときはあまり爺っぽくなくてちょっと意外だった。さらに自分が還暦を迎えたときには、意外どころか自分が爺だとは到底思えず、途方にくれた。確かに老化は進んでいるのだが、かつて自分が思い浮かべた老人像にはまだまだ至っていないと思うのだ。
若さを自慢しているわけではない。60歳なんて昔からまだまだ老人の序の口だったということである。
ミステリー小説で近年話題になった作品にダニエル・フリードマン『もう年はとれない』というのがある。87歳の元殺人課刑事がナチスの財宝の争奪戦に巻き込まれるハードボイルド系活劇で、さすがに80代後半ともなれば体はガタガタなのだが、気骨と口先は加齢とは反比例して先鋭化し、ある意味若者以上のしぶとさを発揮するのである。この主人公は老人ヒーローの最高齢記録を塗り替えたと話題になったが、実はその二ヶ月前にヨナス・ヨナソン『窓から逃げた100歳老人』というタイトル通りの老主人公の冒険譚が訳出されていて、今のところさすがにそれを超える高齢者ヒーローは出ていないようだ。
本書にも高齢者の主人公が登場するけど、67歳。まだまだ序の口なんである。
もっとも物語の序盤はドメスティックな犯罪小説っぽい展開だ。加瀬将造は警察からの連絡で二日前に死んだ父親・真木盛夫の遺骸と対面する。父といっても、将造が6歳のとき女を作って家を出て以来三一年間音信不通、彼には何の感傷もなかった。二年前、ワケあって警視庁の刑事を辞めてから友人の便利屋でバイトして生活費を稼ぎ、借金返済もしている身だ、葬儀代など節約するに限る。故人のアパートの整理に出向いた彼はだが、そこで私設私書箱の契約書を見つけ、さらに30万円入りのレターパックを発見する。金は月にいちど届いていたようだが、送り主は不明。どうやら人にはいえない金らしい。彼はその金に見合ったブツはないかと家探しして、あるものを発見する……。
いかにも悪徳刑事もののバリエーションっぽい出だしであるが、章が改まると場面は山梨県S市の古刹・天峰寺(てんぽうじ)に一転、そこにお参りにきたひとりの老人の姿が描かれる。67歳の彼、生方貞次郎(うぶかたていじろう)は地元で三代にわたって代議士を務める臼杵(うすき)家に運転手兼事務方としてつかえてきたが、認知症になった妻の介護のため定年前に事務所を辞めていた。その妻も程なく他界、息子一家も中東のドバイに駐留しており、今は孤独な暮らしをかこっていた。
そんな生方のもとを臼杵家先代の妻・静江が訪れ、相談があるという。臼杵家の前二代は派閥の重鎮だったり国務大臣を歴任するような大物だったが、静江の息子、三代目の浩太は少年時代からろくでなしで、今も“バカ殿”とか“うつけ公”などと呼ばれている。つい数日前も、県政のドンと呼ばれる古参議員のリークで女絡みのスキャンダル記事が出たばかり。その浩太が「パンダ・キラー」と名乗る者から脅迫を受け、5000万円を要求されているという。生方は静江に泣きつかれ、調査に乗り出すことに。
第一章で加瀬将造が発見したのは臼杵浩太の身に関わるものであるらしいことは明かされる。かくして加瀬の話と臼杵家の話と、ふたつのストーリーラインが結ばれ、生方の調査と加瀬の暗躍ぶりが交互に描かれていく。
元悪徳刑事を主人公にした出だしのノワール調から、ハードボイルド私立探偵小説への転調。いや、私立探偵というより、海千山千の探偵や警官もアゴで使うタフなネゴシエイターか。生方には病歴があって、自分でも耄碌した、焼きが回ったなどというものの、昔取った杵柄は未だ健在、優れた手腕で過去と現在を結ぶ事件の謎を暴き出していく。欧米の血を引く彼は青い目を持つダンディ男で、臼杵家の先々代に見込まれた叛骨者。ちょっと時代小説の眠狂四郎を髣髴させる。彼には円月殺法のような必殺技はないものの、持ち前の度胸と機動力はまだまだ現役で通用しよう。
ただし、物語のほうはひと筋縄ではくくれない。そこはホラー小説(短篇「鼻」)とスパイ小説(長篇『沈底魚』)とで、ふたつの新人賞をゲットしたような曲者の著者である。臼杵家対パンダ・キラーの単純な脅迫劇のままでは終わらないのだ。臼杵浩太が「見る角度によっては、かの独裁国家の三代目をほうふつとさせる」といったあたりからして、臼杵家とその独裁国家の現状とを二重写しにしたような陰謀劇を予感させるし、さらなるサイドストーリーも用意されている。
生方にも厳しい試練が待ち受けているが、なに、まだ67歳の若輩者だ、挽回のチャンスはある!
著者にはぜひ彼の再挑戦劇の構想を練っていただきたい。