連合赤軍のメンバーが立てこもった「あさま山荘」(1972年2月)
連合赤軍のメンバーが立てこもった「あさま山荘」(1972年2月)

 第20回開高健ノンフィクション賞に選ばれた『虚ろな革命家たち 連合赤軍 森恒夫の足跡をたどって』(集英社、11月25日発売)は、「総括」によって同志12人を殺害し、自ら命を絶った連合赤軍リーダーの生涯を丹念に追ったノンフィクションだ。執筆した本誌の佐賀旭記者(30)が取材の経緯や作品に込めた思いを綴った。

【写真】妙義山で逮捕され連行される連合赤軍の最高幹部たち

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 作品を書いたきっかけはある一通の手紙だった。

「6日で28回目の誕生日を迎えます。1月前に小さな生命も1年目を迎えている筈(はず)ですが、感無量です」

 日付は50年前の1972年12月11日。子を想う父親のありふれた手紙だ。

 だが2016年に発見されたこの手紙を初めて読んだとき、私は強い衝撃を受けた。なぜならそれが、連合赤軍のリーダー森恒夫によって書かれたものだったからだ。

 フランスの五月革命や中国での文化大革命、そしてアメリカでのベトナム反戦運動など、世界中で学生たちによる抗議運動が繰り広げられた1960年代後半。ベトナム戦争の後方基地となった日本では、当時の佐藤栄作首相のベトナム訪問を阻止しようと、学生たちが空港に殺到する羽田事件が起きた。

 その事件はヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持ち、暴力によって日本を変革していこうとする新左翼の台頭でもあった。そうした新左翼のなかで、米軍基地にダイナマイトを仕掛けた革命左派と、よど号ハイジャック事件などを引き起こした赤軍派。このふたつの組織が統合し結成されたのが連合赤軍であった。

 長野県のレイクニュータウンにある「あさま山荘」での10日間にわたる警察や機動隊との銃撃戦は、民放とNHKを合わせて89.7%の視聴率を記録し、日本中の人々の記憶に学生運動の終焉を刻み込んだ。

 そして、あさま山荘事件以上に人々を震撼(しんかん)させたのが、山岳ベース事件であった。連合赤軍ではメンバーたちを革命のために闘い抜く兵士に鍛え上げようと、「総括」と称して暴行を加えていたのだ。ある者は化粧をしていたという理由で、またある者は窓の外を眺めていたという理由で暴行が加えられ、同志12人が亡くなった。この「総括」を主導した連合赤軍のリーダーこそ、永田洋子と冒頭の手紙を書いた森恒夫だった。

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