文芸評論家・斎藤美奈子さんが本に書かれた印象的な言葉をもとに書評する「今週の名言奇言」。今回は、「事件」(『嫉妬/事件』所収、アニー・エルノー、ハヤカワepi文庫 1188円・税込み)を取り上げる。

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■あの出来事について何も書かずに死ぬこともできる。(アニー・エルノー「事件」、『嫉妬/事件』所収)

 今年のノーベル文学賞に決まったフランスの作家、アニー・エルノーの作品集が新たに文庫化された。2編を収めた『嫉妬/事件』だ。2002年に発表された「嫉妬」(堀茂樹訳)は別れた男に別の女性と暮らすと告げられた「私」が嫉妬に苦しむ話である。だがより衝撃的なのは00年に発表された「事件」(菊地よしみ訳)である。

 エルノーは自らの体験を小説化するオートフィクション(自伝的小説)の書き手として知られる。「事件」も同じ。描かれているのは60年代、妊娠中絶が違法だった時代の体験だ。

 1963年、「わたし」は23歳の大学生だった。生理が来ないと気づき、病院で妊娠していると告げられたのは11月。身に覚えはあった。夏休みに出会ったPと何度もベッドを共にしたのだ。遠方にいるPに手紙を書いたが、彼は何の解決策も用意しなかった。それから彼女の地獄の日々がはじまる。

 中絶してくれる医者を探し回るも見つからない。勉学にも身が入らない。<妊娠中絶に触れている小説はたくさんあるにしても、それが正確にどう行なわれたかという、その方法に関する詳細を提供してはくれない>。<ぬかるみにはまりこんだ体に敷かれ、吐き気にとらわれて這いずりまわっていた>

 1月、ようやく彼女は中絶をしてくれるパリの老女医を訪ねるが、処置を施されたのは病院でなく自宅の寝室だった!

 妊娠中絶を描いた小説は多いが、当事者の苦悩をここまで克明に描いた小説は読んだことがない。フランスで中絶が合法化されたのは75年。アメリカでは73年に合法化されたが、今年6月、米連邦最高裁は中絶の権利を認めない判決を出した。

<あの出来事について何も書かずに死ぬこともできる>。だが過去を葬りたくないという決意が随所で語られる。12月には本作を原作とした映画(「あのこと」)も公開予定。ノーベル文学賞は米最高裁への当てつけ!? とも思わせる問題作だ。

週刊朝日  2022年11月18日号