第8回で、沢木耕太郎の『深夜特急』をとりあげたらば、感に堪えないという感じの反響があった。
西日本新聞の特派員として北京に駐在し、全国紙とはまったく違うアングルのユニークな中国報道を続ける坂本信博さんは、
「かつて『深夜特急』を読んで胸を焦がし、東南アジアを巡る旅に出てマレーシアで暮らしました」とコラムをうけてツイートし、
いつも工夫のある美味しそうな料理をユーチューブでアップしてくれている麻木久仁子さんは「真夜中にしみじみとこの文章を読みながら。ちびちび飲んでいた酒の味は実に美味くなり」「とてもとても、沁みました………」と。
お二人とも私とほぼ同世代。
というわけで今週は、『深夜特急』再論。
「旅の終わり」についての話。
前回のコラムを書くために、もう何度目になるだろうか。『深夜特急』を読み直した。
思い出すのは、1986年に『深夜特急』の第一便と第二便が出た時、大学を卒業したばかりだった自分は、むさぼるように繰り返し読んだのだった。
ところが、イランから先の第三便が、巻末の予告にはちゃんと刷ってあるのに、なかなかでない。今か今かとまっているうちに一年が過ぎ、二年が過ぎ……。
そんなときに、たまたま同じ『深夜特急』のファンだった中学時代からの友人と、タクシーにのり、興奮して『深夜特急』の話をして、「それにしてもいつでるんだろう」そう言ったら、それまで黙って運転をしていたドライバーが、静かに、
「でませんよ」
と。
「書けないみたいですねえ」
そのタクシーの運転手は「オケラのカーニバル」という沢木さんの短編ノンフィクションに登場するヨット乗りの多田雄幸さんだったのだ。
多田さんは、太平洋横断のヨットレースに、友人らと一緒につくった手作りのヨットで挑んだ人で、沢木ファンになっていた私と友人は、その偶然に興奮した。スポンサーがついた戸塚宏や堀江謙一と違い、多田さんは深夜にタクシーを走らせて、私たちのように、お気楽に生きていた若者をのせて、次の航海の費用をためていた。