半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「なんとなく無為的な創作生活も愉しいです」
セトウチさん
「世の中が暗い方向に向かっている気がするので、愉しいことを」と担編の鮎川さんからリクエストが来ました。
この日の朝日新聞の夕刊の一面のトップ記事は「大谷32号」という大見出しがスポーツ紙並みに躍っていました。この日は4回目の緊急事態宣言が決まった日です。普通なら、こっちの方が大きく取り上げられるはずなのに、「大谷32号」によって緊急事態宣言は、「ああ、またでっか」って感じで、もうニュースバリウは完全になくなっている。また一都三県の競技場も無観客と決まったものの、もはやこっちもトップニュースにはなりません。「無観客」が「完全な形の五輪」ということだったんですね。最早民意を無視した政府の次々繰り出す決めごとに一喜一憂した時期はいつの間にか鮎川さんのおっしゃる暗い方向に向かってしまったようです。
そんな現実的な暗い世相を無視したのか、馬鹿馬鹿しくなったのか、或いはブラックユーモアなのか、信用できない社会的現実をアホらしくなって無視した結果、「エイ、やってまえ」といわんばかりに「大谷32号」を一面トップにしたんじゃないでしょうか。「よくやってくれた」と僕はひとり拍手を送りました。この行為の背景には芸術魂が宿っていたからです。
このことが鮎川さんのおっしゃる「愉しいこと」だったのです。松井の31本を越えたというようなことではなく、今年の大谷の活躍は本場アメリカ人のど肝を抜いて、大賛辞を送っています。世界に知られたら恥ずかしいような今の日本の政府の失態を大谷の活躍がバット一本で暗い日本の世相を一遍に明るく愉しいものに変えてくれています。こんなに嬉しくて興奮することは滅多にないですよね。