知の巨人・立花隆が小学生に感心「思考を止めたら人間は終わる」 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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知の巨人・立花隆が小学生に感心「思考を止めたら人間は終わる」

亀井洋志,鮎川哲也,堀井正明週刊朝日#お悔やみ
立花隆さん (c)朝日新聞社

立花隆さん (c)朝日新聞社

1983年、ロッキード裁判の結審後、朝日新聞記者と座談会をした時の立花さん(週刊朝日に掲載) (c)朝日新聞社

1983年、ロッキード裁判の結審後、朝日新聞記者と座談会をした時の立花さん(週刊朝日に掲載) (c)朝日新聞社

1984年9月、立花さん宅のスタジオで打楽器奏者の吉原すみれさん(右)が演奏。作家の澤地久枝さん(左前)、妹尾さん(澤地さんの後ろ左側)、立花さん(妹尾さんの右隣)、ミュージシャンの小室等さん(右奥の壁際)らが集まった。「“立花趣味”に付き合った豊かな良き時代でした」と蜷川さん(小室さんの左、座っている男性) (写真提供/蜷川真夫さん)

1984年9月、立花さん宅のスタジオで打楽器奏者の吉原すみれさん(右)が演奏。作家の澤地久枝さん(左前)、妹尾さん(澤地さんの後ろ左側)、立花さん(妹尾さんの右隣)、ミュージシャンの小室等さん(右奥の壁際)らが集まった。「“立花趣味”に付き合った豊かな良き時代でした」と蜷川さん(小室さんの左、座っている男性) (写真提供/蜷川真夫さん)

「知の巨人」と畏敬(いけい)されたジャーナリストで評論家の立花隆さんが逝った。享年80。「田中角栄金脈問題」で政治腐敗に鋭く切り込む一方、脳死やがん治療、宇宙など多岐にわたるジャンルを手がけ、多数のベストセラーを世に送り出した。

【写真】1983年、ロッキード裁判の結審後、朝日新聞記者と座談会をした時の立花さん

*  *  *
 立花さんの名を広く社会に知らしめたのは、1974年に「文藝春秋」(11月号)に掲載された「田中角栄研究 その金脈と人脈」だ。田中氏の政治手法や金脈問題を追及し、首相退陣のきっかけとなった。

 76年に戦後最大の汚職事件「ロッキード疑獄」が発覚し、田中氏が逮捕・起訴されると、立花さんは「朝日ジャーナル」で「ロッキード裁判傍聴記」を連載する一方、「週刊朝日」誌上で田中金脈の“その後”を82年と84年に集中連載した。

 当時、立花さんの本誌記事を担当したのが、元朝日新聞記者でジェイ・キャスト会長の蜷川真夫さんだ。蜷川さんは、立花さんの田中角栄研究に触発され、75年に田中氏のおひざ元である新潟・六日町(現・南魚沼市)の通信局に赴任。田中氏の選挙区の人々を取材し、新聞の地方版に「灰色の土壌」と題する連載コラムを書いていた。それが立花さんの目にとまり交友が始まった。蜷川さんが振り返りながら語る。

「週刊朝日の副編集長として配属されたのをきっかけに、立花さんに連載を依頼しました。手足となって取材するデータマンに、フリー記者の井出耕也さん、編集部員だった鈴木啓一君(後に論説委員、故人)らを起用して取材班を組みました」

 いざ作業にとりかかると、立花さんは“仕事の鬼”とも思えるほどの厳格さを見せた。蜷川さんが続ける。

「取材前に膨大な文献を読み込み、文中に引用があれば、必ず原本にあたるのが立花さんの大原則でした。かなり入念に事前準備をするのですが、それをデータマンにも要求します。ある時、不動産取引に関する本を買ってこいと言われて、鈴木君が十何冊も買ってきた。すると、立花さんは『明日までに全部読んでリポートを書け』と命じるのです。鈴木君もそれに応えて、一晩で読んでポイントをまとめました」


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