美輪明宏の美少年時代 三島由紀夫に「君の短所は俺にほれないこと」と言われる (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

美輪明宏の美少年時代 三島由紀夫に「君の短所は俺にほれないこと」と言われる

秦正理週刊朝日
美輪明宏さん (撮影/御堂義乗)

美輪明宏さん (撮影/御堂義乗)

19歳のとき。「銀巴里」にいたころ (本人提供)

19歳のとき。「銀巴里」にいたころ (本人提供)

 1922年に創刊し、戦時中も刊行してきた「週刊朝日」。美輪明宏さんも本誌と同じく、戦争を体験し、激動の時代を生き抜いてきました。「ヨイトマケの唄」や「亡霊達の行進」など、世界への疑問や意見を歌ってきた美輪さんがこれまでを振り返ります。

【写真】まるで別人!麗しい19歳の美輪明宏さん

*  *  *
 今の日本はひどいものです。愚か者に権力を持たせるとろくなことにならないと学んでいるはずなのに、ちっとも成長していません。

 私は戦争を経験しています。第2次大戦当時も国のトップが愚か者だったわけです。当時、「日本は戦争したら2年も3年ももたない」という進言がありながら、そうした意見に耳を傾けず突っ走ってしまいました。米国には財力や資源力など何から何まで、日本が逆立ちしても勝てない状況だった。

 相手が原爆や水爆を造っているときに、こちらは竹とんぼみたいな飛行機を造っていて、私たちは竹やりやなぎなたの練習をさせられました。横綱に赤ん坊が相撲を挑んだみたいなもので、ひとひねりにされてしまった。そのひとひねりが原爆だったわけです。

 1945年8月9日のその日、私は当時10歳で、長崎の自宅で宿題の絵を描いていました。机から離れたら、世界中のあらゆるマグネシウムをたいたように、ぱっと目の前が光りました。その後に轟音(ごうおん)と共に地面がぐらぐらと揺れましてね。爆音に空襲警報が鳴り、外は煙が立ち込め、助けを求める人が倒れている。それは地獄でした。

 長崎は原爆が落ちる数年前までは、日本でも進んだモダンな街でした。欧州などとの貿易港があって、小学校では隣の席が中国人、韓国人、白系ロシア人であるとか、国籍豊かな国際都市だったんです。文化的にもモボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)が長崎には横溢(おういつ)していました。

 それが戦争の空気とともになくなっていく。食料や着る物もなくなる。華やかな洋服を軍人に脱がされ、もんぺにはき替えさせられる女性や柄物の下着をつけていたとの理由で殴られ、死んでしまった女学生もいました。

 クラシックもジャズも流行歌も禁止され、歌えば「戦時下において何たる軟弱な歌を歌うんだ」と警察に引っ張っていかれました。「アラビヤの唄」とか、渡辺はま子さんの「忘れちゃいやヨ」も禁止され、軍歌以外は聞いてはならないと。


トップにもどる 週刊朝日記事一覧

続きを読む

おすすめの記事おすすめの記事
関連記事関連記事

あわせて読みたい あわせて読みたい