「弥助がかなりクレバーな人物だったことは間違いないでしょう。ポルトガル語やイタリア語、そして日本語も習得しています」

 ロックリーさんの見方はこうだ。

「信長は“恐ろしい”人だけに、家臣は非常に気を使っていたでしょう。弥助は情報源として重要な人物だったのは確かですが、ある意味では友人のような、話し相手でもあったのではないでしょうか」

 こうして弥助は信長に仕えたが、運命のときを迎える。

 弥助が信長の家臣となってから1年3カ月後の早朝、西への進軍のため京・本能寺に投宿していた織田軍に明智光秀率いる数千の軍勢が奇襲をかけたのだ。

 このとき織田軍は弥助を含め、わずかな護衛しかおらず、信長は自害したとされるが、謎は残る。

 名誉を重んじる信長は切腹した。まさに多勢に無勢のなか、弥助はどう行動したのだろうか。

「果敢に戦う弥助に、信長は自らの首と刀を二条御所にいる嫡男の信忠に届けるように命じ、弥助はそれを実行したという説もあります。真偽のほどは不確かではありますが」とロックリーさん。

 一方、小和田さんは、

「本能寺を取り囲む数千の軍勢の中をくぐり抜けて、二条御所まで逃げるだけで非常に困難でしょう。二条御所までたどり着き戦った、という記録は『イエズス会日本年報』に残っていますが、信長の首を持って逃げる、というのは不可能でしょうね。最後まで寺にいたことになりますから」

 弥助は信忠を守るため二条御所でも戦ったが、信忠も切腹した。弥助はついに明智軍に投降した。

 本能寺の変に際して、弥助は“最大のキーパーソン”であると、ロックリーさんも、小和田さんもともに口をそろえる。

 奮戦したあげく、捕らわれた弥助だったが、命は奪われなかった。

 光秀はイエズス会だけでなく、キリシタン大名である高山右近を味方に引き入れるためにもイエズス会と関係がある弥助を生かしたのではないか、とロックリーさんは考えている。

 小和田さんは、遠くからやってきて知らない国で殺されるのは忍びないと考え、殺さなかった。そこに光秀の人間性が表れているとみる。

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