OB戦の前に記念撮影をするホークスOBの野村克也さん(手前)と(後方左から)巨人OBの長嶋茂雄さん、張本勲さん、王貞治さん=2018年2月10日(C)朝日新聞社
OB戦の前に記念撮影をするホークスOBの野村克也さん(手前)と(後方左から)巨人OBの長嶋茂雄さん、張本勲さん、王貞治さん=2018年2月10日(C)朝日新聞社
南海の野村克也(左)は戦後初の三冠王、巨人の王貞治(右)は最多本塁打・最多打点の二冠王。各リーグの最優秀選手に選ばれた=1965年(C)朝日新聞社
南海の野村克也(左)は戦後初の三冠王、巨人の王貞治(右)は最多本塁打・最多打点の二冠王。各リーグの最優秀選手に選ばれた=1965年(C)朝日新聞社

 プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名捕手で、監督としても日本一に3度輝いた野村克也さんが2月11日、東京都内の自宅で亡くなった。84歳だった。

【写真】南海時代の野村克也さんと巨人時代の王貞治さん=1965年

 南海(現・ソフトバンク)にテスト生として捕手で入団し、はい上がった野球人生だった。通算3017試合出場は歴代1位、通算657本塁打は歴代2位。本塁打王を9回獲得し、史上最多となる通算19回のベストナインにも選ばれた。

 私たちの脳裏に深く刻まれているのは、「ノムさん」の愛称で親しまれた監督時代だ。緻密(ちみつ)な分析に基づくデータ重視の「ID野球」を掲げ、ヤクルトを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。その後は阪神、社会人野球・シダックスの監督を経て、楽天の監督に就任。球団初となるクライマックスシリーズ出場を果たした。

 選手をめったにほめることはない。ただ、嫌みにも聞こえる「ボヤキ」には選手への愛情がこめられていた。自身がテスト入団でプロ野球の世界に入った背景も影響しているのだろう。トレード要員となった選手や他球団を自由契約となった選手が輝く環境を与え、何人もの選手を復活させた手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。

 3年間で通算2勝とダイエーでくすぶっていた田畑一也はヤクルト移籍初年度に自己最多の12勝、2年目は15勝とエース格として稼働。野村さんから、オーバースローからサイドスローへのフォーム改造を勧められた阪神の遠山奬志は「松井秀喜キラー」として完ぺきに抑え込んだ。

 選手一人一人、球界全体を考えている人だった。ヤクルトの在籍時に伸び悩んでいた選手が他球団に移籍。新天地で救援として活躍した。その選手はヤクルト戦の試合前に野村さんに会った際、

「オレはおまえのことを嫌いだとか、戦力にならないから出したわけじゃない。こうやって出したら花開くと思った」

 と声を掛けられて感激したという。

 惜しまれるのは「野村ジャパン」が実現できなかったこと。野村さんがヤクルトの監督として評価を高めた1990年代はまだワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催される前で、侍ジャパンが創設されていなかった。

 当時の日本球界は、現在の侍ジャパンに負けず劣らず個性的な才能がそろっていた。野茂英雄、伊良部秀輝、斎藤雅樹、桑田真澄、工藤公康、石井一久、今中慎二、高津臣吾、佐々木主浩……。野手陣もイチロー、清原和博、古田敦也、立浪和義、石井琢朗、中村紀洋、前田智徳、新庄剛志、松井秀喜とスターがズラリ。

 テレビ関係者によると、野村さんは侍ジャパンの試合を見ながら、

「オレも一度ジャパンで監督をしてみたかったな」

 とつぶやいていたという。野村さんが指揮をふるい、世界の強豪国を相手に戦う姿を見たかった。(牧忠則)

※週刊朝日オンライン限定記事