直木賞作家・山本一力(やまもと・いちりき)/1948年、高知市生まれ。2002年『あかね空』で第126回直木賞を受賞。最新作『長兵衛天眼帳』ほか、著書多数
直木賞作家・山本一力(やまもと・いちりき)/1948年、高知市生まれ。2002年『あかね空』で第126回直木賞を受賞。最新作『長兵衛天眼帳』ほか、著書多数

「一人暮らしの末の孤独死……」。そんな不安とは無縁なのが、意外にも江戸時代を生きた庶民だった。人情に厚くよそ者にも寛大な江戸の気風が、生きやすい風土を育んだという。直木賞作家・山本一力さんが説く「江戸っ子流の生き方」とは?

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──山本さんは江戸時代が舞台の時代小説を数多く手掛けていますが、江戸時代と現代と比べて、最も大きな違いはなんでしょうか?

 今、私たちの日常生活は、便利な機械や道具に囲まれています。それに比べると、江戸時代の庶民の生活のほとんどは「手」で行われていました。逆に言えば、現代ではかつて「手」で行ってきたことのかなりの部分を、機械に任せてしまっているとも言えます。

 小説を書くことは、人間を描くことです。江戸時代の庶民を描こうとすると、道具に邪魔されることなく、直接、人間に迫っていかざるを得ません。それが江戸時代の庶民の姿を小説に描く醍醐味であり、魅力です。

 もちろん、現代から見れば道具がないというのは、とても不便に感じるでしょう。しかし、江戸時代の庶民は「便利」ということ自体を知りません。お湯を沸かそうと思ったら、火をおこして炭をくべるという手間のかかる方法以外、知らないのです。つまり、比較する対象がないのですから、自分たちの生活が「不便」だなんて、まったく思わなかったはずなのです。

──日々の生活に満足していたということでしょうか。

「足るを知る」という言葉があります。何かと比較して身の回りの不便を嘆くのではなく、いまある生活を精いっぱい生きることで、江戸の庶民は満足していたのだと思います。

 江戸時代はよく「身分社会」だったと言われます。武士の子は武士になり、職人の子は職人になる。職業選択の自由はないわけですが、これも比較するものがないので不自由を感じるはずもないのです。親から引き継いだ職分を果たすなかで、少しでも生活を良くしようと懸命に働き、生きた。それはまさに「足るを知る」ことであり、実に幸せなことだったと思いますよ。

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