興福寺中金堂が約300年ぶりに再建された (写真/今 祥雄)
興福寺中金堂が約300年ぶりに再建された (写真/今 祥雄)

 興福寺中金堂が約300年ぶりに再建された。奈良にはこのほか、平城宮跡、薬師寺食堂(じきどう)といった、南都焼き討ちや数々の戦乱、近代化による開発などで失われた天平の姿が、少しずつよみがえっている。50年前は見ることができなかった「青丹よし寧楽(なら)の都」へご招待しよう。

【写真特集】奈良再発見 よみがえる天平の都

「天平の文化空間の再構成を目指します」

 10月に行われた興福寺中金堂落慶法要(7~11日)で、9日、仲川げん奈良市長は力強く話した。

 その言葉通り、奈良はこの50年で大きく姿を変えている。薬師寺金堂、薬師寺西塔、薬師寺食堂、平城宮跡、さらに興福寺中金堂などが次々と再建され、古(いにしえ)の姿を取り戻している。そして奈良は、近代と古代が同居する街になった。再び姿を現した天平の建造物のなかでふと目を閉じると、悠久のときの流れにさらわれ、古代に迷い込んだ気分にさせられる。

 平城京はシルクロードの東の終着点でもあり、とても彩り豊かな街であった。青(緑)と丹(朱)を基調に塗り分けられた建物の間を色とりどりの衣装をまとった貴族が行きかい、街は華やかで、嫋(たお)やかであった。

 あれから1300年余り。天平(729~67年)の姿がよみがえりつつある今、再び、奈良の都は「咲く花のにほふがごとく 今盛りなり」。(取材・文/本誌・鮎川哲也)

■興福寺
669年に造営された山階寺が起源、南都七大寺の一つ。藤原氏の氏寺で、阿修羅像をはじめ、数多くの国宝がある。

10月7日、再建された中金堂では大太鼓(だだいこ)が打ち鳴らされ、落慶奉告法要が厳かに営まれた。9日には「南都隣山会厳修 落慶慶讃四箇法要」があり、興福寺に近い諸寺が祝った。藤原鎌足の子・不比等により興福寺と名づけられた寺は、戦火などにより、いくども伽藍が焼失した。今回再建された中金堂は約300年ぶりに当時の荘厳な姿を現し、五重塔と共に興福寺の新しい価値を生み出した。

■唐招提寺
日本に戒律を伝えるために来日した唐の僧・鑑真が759年に戒律を学ぶための道場として開いたのを始まりとする。

鑑真の死後、弟子たちにより建造された金堂は、奈良時代に建立された寺院の仏堂としては飛び抜けて大きなもので、奈良時代の金堂として唯一現存している。正面に大きな庇が伸び、吹き放ちになっているのが特徴の一つだ。金堂は2000年から10年の歳月をかけて解体修理が行われた。創建当時は、ここで紹介した他の建造物同様、鮮やかな色使いであっただろうが、渋い色合いがかえって重厚感を醸し出している。奈良市の中心から離れたところにあるのが幸いし、戦火を逃れた証しである。

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