「なんでもアリの時代。テレビは文化だった」と語る小林亜星の人生

2018/09/21 11:30

――やがて朝鮮戦争は休戦。バンドもジャズも廃れていったという。世の中の景気は後退し始めていた。

 すごい就職難でね。一度は入れるところに就職したんです。製紙会社の営業マンになりました。

 営業っていったって何の苦労もなかったんです。1950年代は三白景気っていってね。三つの白いもの、硫安(硫酸アンモニウム=肥料)、砂糖、そして紙。これが不足していて、何しろ作るそばから奪い合い。営業は「ちょっと待ってください」っていうのが仕事だったんです。楽だったからってわけじゃないけど、営業の仕事は意外と向いてましたね。やってみて、あ、この仕事好きだなぁって思った。

 でもね、どこか自分の人生じゃない気もしていた。仕事をしながら、頭の中は音楽のことばっかりなんです。まったく失礼な話だよね。

――結局、ひと月も続かず、会社を辞めた。音楽のプロになるため、国立音楽大学教授を務めた服部正氏の門をたたいた。

 服部先生は当時、ダークダックスの曲を作曲・編曲してらっしゃって、僕たち弟子もそのお手伝いであちこちの放送局へ出入りするようになったんです。最初はNHKだったな。

 今と違って、外部の人間がいつでもふらっと入っていけましたからね。「こんちはー! 何かお仕事、ないですか?」って。そうすると「あ、頼みたい!」とか「おーい、回せる仕事ない?」なんてね。当時はまだラジオが主流で音楽番組は大人気でした。音楽番組をアレンジャーとして担当するようになりました。

 NHKテレビの実験放送で、藤城清治さんの影絵のバックで演奏したこともあります。当時は収録なんてありませんから、影絵も演奏もすべて生。一度なんて、木の上の妖精がラッパを吹くシーンで、トランペッターがミスって音が出なかったんですよ。そしたら藤城さんが怒って裏へやってきて、そいつの頭をぽかっ! 今度は楽団みんなが怒って、仕事をボイコットして帰っちゃった。無音になっちゃってね。実験放送とはいえ、立派な放送事故だよね。

――テレビの普及とともに、アレンジ(編曲)の仕事は民放からも舞い込むようになり、多忙を極めた。だが、そこでアレンジの仕事をやめるという大英断を下す。それが、作曲家の道への転機となった。

 仕事はたくさんあるけれど、どれもこれもアレンジの仕事。日本は音楽に飢えていたんです。海外からはどんどん、オペラもクラシックも流行歌も入ってくる。それを日本人がカバーするには、編曲が必要でした。

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